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休暇にかじるスイスドイツ語方言学

こんにちは。スイスラボの言語学者 Yamayoyam です。

2021年の夏休み、明けてからもうだいぶ過ぎてしまいましたが、みなさまはどんな夏休みを過ごされましたか?時節柄、旅行が難しかった方もいらっしゃるかと思います。ベルン在住の私たち家族(夫+私)は、スイスの人口密度の低さに運を任せて、8月初旬にお隣ヴァリス州へ、プチ旅行に行きました。

行き先は、Binntal という、ベルン州のお隣ヴァリス州にある、谷深い村落。そこに、Hotel Ofenhorn Binn という1883年創業の、由緒あるかわいらしい佇まいのホテルがあります。

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夫の母方の祖父はこのホテルが大大大好きだったのだそうです。そんな縁があって、今年の夏はこのホテルに泊まってみることにしました。

勿論ホテルの内装はすごくキュートだったし、スイスアルプスの絶景は素晴らしかったし、花もバッタもたくさん咲き乱れ、乱れ飛び、ついでにスイスでは有名な石切場も訪れたし、書くことはたくさんあります(→いつの日か別記事に)。

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ですが、ここではあえて言語・言葉に関わるトピックを無理やり取り上げたいと思います。

以前公開した記事で、スイスの言語状況についてチラッとご紹介しましたが、スイスでは、標準ドイツ語と呼ばれる「いわゆるドイツ語」とはかなり違うスイスドイツ語の諸方言が話されています。
チューリッヒ方言、ベルン方言、ルツェルン方言・・・のように各州によって異なる方言が話されています。そして、この夏訪れたヴァリス州でも、独特のヴァリス方言が話されています。

ホテル滞在最終日を迎え、チェックアウトをした後、帰りのバスが来るまで時間があったので、ホテルのカフェ(ていうか庭)に立ち寄りました。そしてお会計時にもらったレシートがこちら。

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エスプレッソ一杯が4フランというスイスの物価の話題はさて置いて、レシートの最下行にプリントされてる一文が、ヴァリス方言!

Merci fer z Bsüechij und bis zum negschte Mau.

とあります。感激!というわけで、帰りのバス&電車で、この方言の話になりました。夫はチューリッヒ州出身で、母語というか母方言(?)はチューリヒ方言。ヴァリス方言とはだいぶ違うので、違いを比べるのがかなり面白かったです。

レシートの最下行の一行、チューリヒ方言だと、

Merci für s Bsüechli und bis zum nööchschte Maal.

だそうです(Dr. Luzius Thöny による)。正書法は無いのですが、 Eugen Dieth という言語学者が提唱した、発音をわりと忠実に写し取る書き方ルールに則っています。ドイツ語で Dieth-Schreibung というのだそうです。

スイス標準ドイツ語だと、

Danke für das Besüchlein und bis zum nächsten Mal.

でしょうか。

語彙情報を付けると、

Danke 「ありがとう」
für 「~(のため)に」前置詞、対格支配 
das 冠詞、ここでは中性単数対格
Besüch-lein Besuch 「訪問」の指小形、「立ち寄り」くらいの意味か?
und 「そして」接続詞
bis 「~まで」前置詞、与格支配
zum = zu 「~へ」(前置詞、与格支配)+ dem (冠詞、中性単数与格)
nächsten 「次の」形容詞、中性単数与格(弱変化です)
Mal 「回」中性名詞です。

「お立ち寄りくださってありがとう。また来てね!」くらいの訳がぴったりかと思います。

改めて、三つ並べてみます。

ヴァリス方言     Merci fer z Bsüechij und bis zum negschte Mau.
チューリヒ方言    Merci für s Bsüechli und bis zum nööchschte Maal.
スイス標準ドイツ語  Danke für das Besüchlein und bis zum nächsten Mal.

Merciは、スイスドイツ語で「danke」の代わりによく使われる「ありがとう」。Dankeって言っても全然OKなのですが。明らかにフランス語由来です。スイスはフランス語とドイツ語が今も言語接触している地域。こうやって色んな言葉が入ってきます。面白いのが、「danke」と一緒に使われる前置詞「für」がmerciと一緒に使われているところ。語彙だけ入れ替わって文法的要素はそのまま、です。

ヴァリス方言ではこの「für」の母音 ü の特徴の一つ、唇の丸まりが失われて、「fer」になっています。続く冠詞も、チューリヒ・ヴァリス両方言でなんと das が子音一つ(s および z)になってしまってる!!冠詞にはたいていアクセントが置かれないので(特にこの文脈では)弱化という、音の発音がどんどん不明瞭になっていく、という現象が起こってますが、それにしても・・・。

そして、指小形と呼ばれる、日本語の東京方言・関西方言でいうところの「ちゃん」、東北方言の「ッコ」に当たるような形(「飴ちゃん」「飴ッコ」みたいなの)の作り方がそれぞれ違う!

ヴァリス方言:-ij (Bsüechij)
チューリヒ方言:-li (Bsüechli )
(スイス)標準ドイツ語:-lein (Besüchlein; 指小辞としては -chen もありますが)

標準ドイツ語 -lein とスイスドイツ語で広く使われている -li は対応しているのですが、ヴァリス方言の -ij はユニークです。その昔13世紀頃、ヴァリス州から東のグラウビュンデン州への移民があったので、今でもグラウビュンデンの一部の地域(ラインヴァルトやダヴォス)ではヴァリス方言に似た方言が話されています。そこでも同じ指小辞(時々音が入れ替わって -ji となる)が使われている、という地元出身者からのタレコミがありました!※

次に、「negschte」。標準ドイツ語では閉鎖音(p, t, k みたいな唇や口の中で弾ける系の音です)の前に立ち、かつ語頭にある s のみ「シュ」と発音しますが、たいていのスイスドイツ語では語中でも「シュ」と発音します。チューリヒ方言でも「nööchschte」ですね。もうひとつ例を上げると、Post「郵便」を標準ドイツ語で「ポスト」と言うところ、「ポシュト」みたいに発音します。それがそのまま綴り -sch- に反映されているのが面白い!ちなみに「nächsten」の語末の -n が「negschte」「nööchschte」では落ちてますね。これもスイスドイツ語の特徴なのだそうですよ。

それから、「Mal」やチューリヒ方言の「Maal」の代わりに「Mau」となっているところ。実はベルンドイツ語でも「Mau」です。前には母音、後には子音(あるいは語末、何も後ろにない!)の間に挟まれている l が、発音の際に舌が歯茎裏から離れて宙ぶらりんになって、u になってしまう、という音の変化が起きているのです。※※
もう一つ例を上げると、Milch「乳汁」が Miuch / Müuch / Möuch となります。

こういった方言特徴がレシートにちゃんと印刷されているのは、なんとも感慨深いものです。耳から聞いてもスイスドイツ語方言がよく聞き取れない私にとっては、たいへん有り難くもあります。このままずっと方言をレシートに印刷し続けてほしいものです。

そして、地元ベルン州含め、他の州のレシートにも注目していきたいと思ったのでした。

スイスラボの言語学者
Yamayoyam

※いつか詳しく調べてみたいものです。
※※ポーランド語の「dark ł」の発音で起きていることも似た例としてあげられます(起きる条件が違うけど)。例えば、ポーランドの有名な人名 Kuryłowicz で「ł」の発音は「ウォ」のようになるんですよ。


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