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52ヘルツの声を聴いて


電車の中なのに泣いてしまった。


あまりに美しすぎたから。


読後、「よかったね、よかったね。」と声をかけながら彼らを抱き寄せたい気持ちになった。


ちなみに、凪良ゆうさんの『流浪の月』に世界観が似ているな、とも思った。



見たこともない家や田舎町の風景が、読むだけでありありと浮かぶ。会ったこともない彼らの姿が、読むだけでありありと浮かぶ。体験したことのないほどに残酷な過去の境遇が、まるで自分のものかのように押し寄せてきて、私の胸をグサグサと刺す。しかし、それ以上に受けた傷が大切な人たちによって癒やされていき、彼らの存在が希望となっていくのを感じる。



私は彼らとは違う。彼らほど残酷な幼少期を送ってきてはいない。せいぜい、いじめに遭っていた程度のもので、それが私にとっての"ドン底"であったけれど、そんなものは彼らの受けた心の傷の比にはならないだろう。


だけど、私はその気持ちを知っていると思った。
その人に出会えたことで救われたと感じる、そんな気持ちを。


この本でのキナコにとってのアンさんは、私にとっての中学のときの国語の先生だったY先生と高校の部活で出会った男子だった。

Y先生は私の憧れだった。
カリスマで、どんな人もやる気にしてしまう。自分に自信を持っていて、話し上手。おまけに、私が悩んだ時や病んだ時にはいつも話を聞いて、心を救ってくれた。

一言で言うと人間力のある人になりたいです.
伝えたいことを相手に響きやすい言葉・表現で伝えられるような人になりたい.
そのためにはたくさんの経験と知識が必要だと考えています.
色んな人と関わり、色んな世界を見て、色んな分野の知識を吸収したい.


自己紹介記事にも書いている私の目標だ。
私の行動の軸であるこの目標も、Y先生から気づきを得たからこそできたものだ。ただ、Y先生はとても極端な人であり、少々変わり者でもあるため、人間力のある人かはわからない。だけど、先生のいいところは使い方を変えたら人間力になる。それに気づいたから今の私があるのだ。



高校の部活であった男子Cには、何度か話している、私が部活の同級生女子から袋叩きに遭っていた時に助けてもらった。それまでも部活の同期として知ってはいるもののそんなに仲良くはなかった。しかし、その時期に合わせて、あることがきっかけとなって仲良くなった。

彼はものすごく聞き上手だ。苦しい時、どんなに長文で心の内を吐き出しても嫌な顔ひとつしない。共感して、時に私の代わりに怒ってくれる。彼に話を聞いてもらうと、心の内が浄化され、癒やされていくのを感じる。今でも嫌なことがあると彼に聞いてもらうことがある。彼は間違いなく、私にとって必要な人だ。


この本でのキナコにとっての美晴は、私にとっての幼馴染だ。

彼女とはもう18年の付き合いになる。お互い小さな頃にたくさん喧嘩し、嫌な部分を見てきたからこそ、今は喧嘩ひとつせず本音で話せる貴重な存在となった。彼女はいつも私に、

「彼氏とドットさえいれば幸せだぁ」

といってくれる。

私もそう思う。

どれだけ人に裏切られても彼女がいてくれるから腐らずに生きていられる。下手にたいして仲良くもない他の人と遊びに行くくらいなら、彼女と遊んだ方がよっぽど有意義だと思う。
きっと、それぞれに子供が産まれても彼女との関係は変わらないだろう。


この本でのキナコにとっての52は、私にとっての今の彼だ。

前にもちらっと言ったかもしれないけれど、彼は慰めるのは下手だ。女性脳寄りに共感して、同調して…とかどころか、なんなら男性脳らしく解決策の提示もしない。だけど、私に前を向かせるのは得意だ。付き合う前から。



「よかったよ、ドットが大学でコミュニティ築けてて。」


この前日課の電話をしていたとき、彼が言った。

え?笑 というと、

「楽しそうで、よかった。キミにはそのまま笑顔でいてほしいからね。」

と、ぽつりと言ってくれたのだ。


それは誰のおかげ?あなたのおかげだよ。



私が好きになったそんな彼が私のことを好きになって、好きだと言ってくれた。その事実がどれだけ私の支えになっているか。それでどれだけ自分に(最低限の)自信を持って生きられるようになったか。そんな彼がいるから、私は幸せに生きていられるのだ。


男子Cと、彼。

なぜ男子Cを選ばない?て思うかもしれない。
キナコがアンさんを選ばなかったように、私も男子Cを選ばなかったし、今後も選ぶ予定はない。

それは友達として、人として長く付き合っていたいから的なsomethingだけでなく、単純に選ぼうと思わないのだ。もちろん、魅力がないとかそういう問題でもない。

ただ純粋に、そういう縁なのだろうと思う。


Y先生、男子C、幼馴染、彼。

彼らのことを想いながら私は読んだこの小説だが、心から刺さる人はどれだけいるのだろう。


ただ、1つ言えるのは孤独感的な意味で、人間関係において苦しい経験をしていない人には本当の意味では刺さらないのではないかということだ。

これは、小説の表現力の問題ではない。


むしろこの小説が刺さらないということは、これまで無意識のうちに人を傷つける側____人に勝手に評価されて苦しめられる側でなく、勝手な評価で苦しめる側にまわってきた証拠なのではないだろうか。


この小説に限らず、純粋に思い入れが強すぎる本の感想を書こうとすると上手く書けないのが悔やまれる。


しかし今回は届けたくなって、書いた。

この本でキナコと52の52ヘルツの声を聴いて、逆に私は昔の自分の52ヘルツの声を受け止めてもらえた気がした。さっきと矛盾するようではあるが、きっとそう思える人は多いんじゃないかと思うのだ。

だからこそ不特定多数に薦めたい。本当の意味で刺さらない人も含め、誰にでも、何度だって読んでほしい。

うまくいえないけれど、読んで刺されば刺さる人が増えるほど、この世界は優しくなると思うから。






読了:7月12日(月)

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