「神々の沈黙」ジュリアンジェインズ著 感想文
あらゆるジャンルの知識を総合して人類史を紐解くような本がある。自分が過去読んだものだと「銃・病原菌・鉄」 #ジャレドダイアモンド 著(1997)とか、「サピエンス全史」 #ユヴァルノアハラリ 著(2016)などがそうだろう。特に前者は、これまで学問というのは一つのジャンルを掘り下げていくものと勝手に思っていたのを覆される素晴らしい著書だった。
また違う角度の壮大な書籍もある。俺が最初に感銘を受けた心理学者、 #岸田秀 の「ものぐさ精神分析」(1977)を始めとする数々の著書は心理学を軸に歴史から文化までを精神分析していく素敵な視点を自分に与えてくれたし、コロナ中に読んだ「感染症の世界史」 #石弘之 (2014)も感染症の歴史を紐解くことでそこに密接に歴史が関わってくることを知れて面白かった。
そしてこの本だ。著者 #ジュリアンジェインズ も心理学者ではあるが、彼の場合は心理学を出発地点にしつつも動物行動学から脳科学から人類学から世界各国の古書物・遺跡に関するものまで、あらゆる学問を詳細に学んだ上で書かれた、生涯唯一の著書がこの「神々の沈黙」。1990年に加筆されたものではあるが、翻訳されて出版されたのは2005年。原著は1976年。そんな古いのに2024年現在に読んでも衝撃的な本だった。
タイトルに「神々」と言う言葉が記されているが故、ある種のスピリチュアルに勘違いしそうなこの本は、なんと壮大で驚き人類史を突きつけてくることか。実際はメインタイトルよりもサブタイトル「意識の誕生と文明の興亡」が的確に内容を指している。さらに帯の文言「3000年前まで人類は意識を持っていなかった」でもいい。
書き始めに著者自らその壮大さを示唆する
「ああ、この心という、実態なき国。目に見えぬ光景と耳を打つ静寂の、なんたる世界であることか。(省略)自己の中の自己、すべてでありながら何物でもない、この意識ーいったいその正体は?そして、それはどこから生まれてきたのか?そして、なぜ?」
そもそも人間に「本能」はあるのか?俺は岸田秀などが通奏低音のように言っていた「人間は本能が壊れた動物である」とする捉え方を支持する。本能の赴くままに性行為がそこかしこで行われない理由を考えただけでも分かるだろう。性行為を本能だけでは出来なくなった人間は、それを維持するために種族保存のために文化を誕生させた(行き過ぎを防止するためのモラルや法律でもあるだろう)とする解釈だ。その、「人間は本能が壊れた動物である」と言う前提で見ると、歴史上のことから現在のことまで実に明快に解説出来るのだ。
だが、「なぜ人間の本能は壊れてしまったのか?」に関しては漠然とした話しか読んだことがなかった。どんな動物にもあるが、突然変異で説明されがちで、猿(類人猿)が突然変異で体毛のない身体で一定数生まれ、ジャングルを追い出され、通常ならそのまま絶滅してしまうはずが、脳を発達させることで自らの身体的劣勢を克服して生き延びたのだと。それは「猿の胎児化」と呼ばれるそうだ、我々は劣性であるはずの猿の胎児と同様の個体から進化したのだと。だから体毛もない。子供が親から自立するまでにこれほど年単位でかかる動物はいない、と言う明確な事実から俺はその「猿からの進化ではなく劣性を乗り越えて存続した」とする捉え方を支持する。そこまではひとまず、おおよそ事実だったとして、その後どのように言語を獲得し、意識というものを持ち得たのか?と言うことはそこからの「進化論」と言う漠然とした説明で終わることが多かったと思われる。そもそもその「漠然とした」進化論説明自体を不満にも疑問にも思ったことすらなかったのだけど。
この本はこのような構成になっている
序章・第一部「人間の心」
「意識とは何か?」というところに時間を割き、これまでのあらゆる説を検証していき、「意識は言語に基づいている」という結論に向かう。
そして人間は3000年前までは意識というものを持っていなかった。それまでは右脳で囁かれる神の声を聞いて行動するという、本能的な生き物だったと。それだけを聞くとぶっ飛んだ説にしか見えないだろうけど、多くの医学・脳科学まで引き合いに出して説明されているうちに、それが実に説得力のあるものに見えてくる。ここで提唱されるのが「二分心〜Bicameral Mind」。人間の右脳と左脳で分かれている理由、特に右脳が左脳と比べて驚くほど活動をしていないことを指摘し、3000年前までは右脳が「神の声を聞く」日本人向きな表現に言い換えると本能の居場所だったと。
第二部「歴史の証言」
3000年前までは意識を持っていなかったことを、メソポタミア〜ギリシアに残された遺跡、文字などを紐解きながら解説していく。意識を持っていないということは「時間軸を持たない」「偶然という概念がない」「内観・主観がない」ことになる、ということを軸に説明していく。人類初期の神話や文学が意識を持つ今の感覚とどういうズレがあるのか、あの大きなピラミッドや像が存在した理由と二分心がどれだけ密接に関わるのか。そしてそうしたシンボリックで圧倒的なものが作られなくなった時期と、意識を持ち始めた時期が一致するという事実を明らかにするのだ。
第三部「二分心の名残り」
そうして「意識」を獲得したということは、二分心の頃の本能的な生き方が出来なくなる=神の声が聞こえなくなる=神々の沈黙、だ。そのある種の全能感への渇望から各種の文化や行事がいまだに続いているのだという解説がなされる。占い、詩と音楽、科学、催眠術などから統合失調症まで。統合失調症の患者は幻覚や幻視があったりするわけだけど、その症状自体が二分心の頃の脳への逆戻り的な症状なのではないか?と。
いやぁ、、、今こうして振り返っていても衝撃的な内容で、かつ説得力があることに驚く本でした。なにせ著者はすごく優しく話を進めていく。違う解釈が存在する場合はそれをきちんと紹介するし、前半で解説したことを、後半に再び引用するときには再度説明してくれる。大学講師を長く務めていたことも関係するのだろう。自らの見解を伝えることへの本気度が伝わってくるのだ。
個人的には前半にピアノを弾く行為についての言及もあって、全く持って同意だった。意識についてのくだりでこのように触れられる
「日常的な行動を私たちがいかに意識していないかを示す例は、いたるところにあふれている。中でもピアノの演奏はその最たるものだ。
複雑な行為がほとんど意識されることなく同時に遂行されている。意識はしばしば不要であるばかりか、非常に望ましくないことさえある。嵐のようなアルペジオが続く最中に突然自分の指を意識しようものなら、そのピアニストは演奏をやめずにはいられないだろう。」
また原注ではこのようなことも
「私はよく即興でピアノを弾くのだが、新しい主題や展開を創作しながら、自分の動作に意識を働かせず、夢遊病者のように自分の行為を自覚しないで、ただ他人事としてしか自分の演奏を意識していないときに、最高の演奏が生まれる」
その通りだ。ピアニストな自分として全くの同意、御意だ。演奏しながら他のことを考える余裕がある時にこそ最高のパフォーマンスとなることは自分でよくわかっている。指使いのことなどを考えようものならたちまち演奏が止まる。考えなくて済むように、意識しなくて済むようにするために練習をする。あとは「俺の手、俺の指、よろしくな!」と言った形でステージに立つ。もちろんある種のステージでは緊張することもあるが、緊張することが想像される場合は、敢えて手を意識しながら練習することがその解消法であったりもする。
占いに関して、科学に関しての著述もうんうんと頷くことばかりだったが、あとは興味をもった人がこの本に手を伸ばせばいいと思う。
残念なのは、著者はアジア、日本についての言及まではしていないこと。後輩がアジア、中国の分析を実践中とは書かれていたので、訳書が見つかれば是非見てみたい。
というのも、「3000年前までは意識を持っていなかった」というのは、最初の意識の萌芽が見られるのがその頃のメソポタミア界隈というだけであり、例えば1500年頃にスペイン人ピサロ率いる軍隊がインカ帝国を征服した時の史実から、「意識をもったスペイン人vs 二分心が残っていた頃のインカ人」という図式の戦いではなかったか?と記されている。つまり意識の誕生は地域差があるのだ。ということは東の端の日本も遅れて誕生したはずで、1万年以上前から3000年前までとされる縄文時代とはまさに二分心な時代であるはず。だが日本ではその後の250-538年とされる古墳時代にその名の通り、大きな古墳が全国各地に作られている。この頃までひょっとしたら、エジプトやインカのピラミッド時代の人たちと同じ二分心な時代であったかも知れないと想像されるのだ。
人類には「二分心」という形の本能のある時代があった
その捉え方で人類史を見直すことは実に面白い。その頃への渇望がある種の宗教から占いから科学から芸術まで存在している理由なのかも知れない。あの頃の無垢で無敵な、本能をもった時代を渇望する形の現在が今も続いているのだと。ある種のアイドル崇拝などもそのような文脈でひょっとしたら説明できるのかも知れない。読み終えてはいるが、余韻が終わらない。
終わらないので、最後に、この本を勧めていた #村上春樹 の紹介文(Brutus 2022年)をどうぞ。これが一番簡潔で素敵な感想文だと思う(笑)
「人類は長いあいだ「意識」というものを持たずに生きていきた、というのがジェインずの主な主張だ。人類の歴史を振り返れば、いわゆる「意識」が生まれたのは、わずか3000年ほど前のことに過ぎない。それ以前の人間は右脳で神の声を聞いて、それを頼りに行動してきた。つまり自己というものを持たなかったわけだ。しかし人々が農耕社会に定着し、文明を築き、文字を得て、その結果意識を身につけたとき、神の声はもう聞こえなくなってしまう。人類にとって、どちらの状態が本当に幸福だったのだろう?
とても大胆な仮説だが、読み進んでいくうちに、その広大な世界観の中にズルズルと引きずり込まれていく。多くの考証、例証を並べた、とても説得力のある本だ。創作を志す(つまり天の声を聞こうとする)人たちにとっては、多くの示唆に富んだ書物であると思う。」