しんどい人がいたら助ける。しんどいときには助けられる。
スウィングがまあまあ好きで、大嫌い。
ずっとそう感じてきました。2006年にスウィングをはじめて以来ずっと。
4月3日に思いがけず大ケガを負ってしまい、はじめて長くスウィングを離れてみても、思い浮かぶ顔に愛しさを覚えつつ、逃げ出したいような煩わしさを感じてしまうのも本音です。
けれどその煩わしさをこそ愛し、助けられてきたことももちろん知っています。
だからこそ明日からの、およそ40日ぶりの復帰は楽しみでもあり怖くもあります。
2019年に『まともがゆれる』が出版された頃からでしょうか。
スウィングの文化や価値観が少しずつ受けいれられて(……きたような気がして)ワーワー喜んで忙しくやっているうちに、たまの休みの日にどう過ごしたらいいかさえ分からず、不安いっぱいに疲れ切っている自分に出会いました。
年をとったせいも長年の疲れもあるのでしょう。これは本格的に「休んだほうがいい、休まなければ危ない」と危機感をおぼえ、それからは仕事の量を減らすこと、休む習慣を身につけることを計画的に進めてきました。
休みを取るのには最初は罪悪感もありましたが次第に慣れてきたように思います。
そんな途上に突如起きた大ケガとひと月以上に渡る療養。
療養といってもその大半の時間は痛みや不安に耐えたり、制限だらけの日常を送るのに必死だったのであまり休んだという感覚はありません。
けれどスウィングと心理的にも物理的にも半ば強制的に距離を置き、自分の心身に目を向けることができたことは本当によかったと感じています。そして具体的に説明するのは難しいのですが、まだまだ「やらなければいけない/やれると思っていること」が分不相応に過剰であることに気がつきました。
自由で楽しげなスウィングですが、毎日おおぜいの人が集まり、それぞれが自由で楽しくいられる場をつくり続け、維持し続けるのはなかなかに大変なことです。
人はそれぞれ、当たり前にまったく違う存在なわけですが、場の自由度が高ければ高いほどその違いはきわだち、同時に違いを認め尊重し合う秩序を保つことも難しくなります。
誰かの自由(や楽しさ)は他の誰かのそれと相容れない可能性をいつも秘めており、ときには知らず知らず誰かの自由を侵害し、苦しい思いを強いてしまうこともあります。
ここに言葉が分かる/分からないだの、ハンディキャップがある/ないだのはあるようでいて実はあまり関係がなく、「いろいろな人が集まってうまくやってゆくのはなかなかに難しいことなのだ」という単純な事実があるだけだと思います。
さまざまな人たちと共につくり続けているスウィングですが、主にはその思想性において僕とスウィングは一心同体のようなところがあります……いや一心同体なんだと思います。
かつてスウィングと自分自身とをどう切り離せばいいのか分からず悩んでいたとき、ココルームの上田假奈代さんに「なに言ってるの。スウィングはあなたのことよ」とサラッと言われ、ああ分けなくていいんだとモーレツな安心感を得たことがあります。
けれど今思えばそれは「スウィングがまあまあ好きで、大嫌い」という思いの謎が解けた瞬間でもあったのかもしれません。
この苦しい療養期間中、多くの人にさまざまな形で助けてもらいました。しんどい人がいたら助ける。しんどいときには助けられる。そうやってお互い様に、助け合いながら生きてゆく。
これ以上に大きく大切な仕事はなく、後はおまけみたいなもんじゃないかという思いがより一層強くなりました。
まとまらない文章になりましたが、そんなわけで僕はこれらも「自分」という逃れられない病とスウィングを生き続けます。
暗くて弱くてどうしようもなくバランスが悪いのが少し残念ですが、だからこそ分不相応に過剰なものは諦め手放し、なるべく楽しく明るく、だましだまし休みながら、大切な人たちと助け合って生き続けたいと思います。