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蛙化を考えると、ぶどうが酸っぱくなる話

おはこんばんは。

イソップ童話、ご存知ですかね。

大昔のイソップさんが作ったお話で、
当時の権力者への戒めとか、生きるための大切なことを説いてくれたものです。

「伝える時は小学生でもわかるように」とはいいますが、
イソップさんは大昔からそれをされていたから、
偉い人向けのお話が今は絵本として読まれてるんですね。

すごい。



今日はその中で、「すっぱい葡萄」についてです。




「すっぱい葡萄」

狐が高いところにあるぶどうを取ろうとして、取れなかった後に、あのブドウは酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると自己正当化した話。

転じて、自己の能力の低さを正当化や擁護するために、対象を貶めたり、価値の無いものだと主張する負け惜しみをさすようになりました。







手に入らなかった理由を外に求めちゃう気持ち、めちゃめちゃ分かります。


限定スイーツ食べられなかった時も、「他の人のように、早朝から並ぶほど欲しいものではなかったな」と諦めてしまいますもん。


ふと、これ、欲しいものの認識を自分の都合のいいように正当化する、ということで、蛙化とも似ているのかな…?と。


けれど、蛙化だとぶどうは取れてしまってるから似ているようで違うのでしょうか…?




蛙化だと、ぶどうは取れたけれど、あんなに欲しかったはずのぶどうがじつは美味しくなかったことを受け入れたくなくて、


相手を信じられなくなったり、嫌悪感をいだいたり、そういうことで正当化してしまうのでしょうか。



あんなに欲しかった、頑張った成果がこれであっていいはずかない。

きっと、取る過程で傷つけてしまって美味しくなくなってしまったんだ。

美味しく取れなかった、私が悪い。

…とかも。



目の前のことを受け止められないと、きっとぶどうは酸っぱかったんだ、にしかならないんですね。





本日もありがとうございました。

それではみなさま、また明日。

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