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タンブルウィードと西部劇とアンチ・ヒーロー

今日は”制作ノート”とは無関係なタンブルウィードと西部劇の映画の話を中心に。制作に関係ないからむしろ楽しいのか。。


タンブルウィードと西部劇とアンチ・ヒーロー


[タンブルウィードと西部劇]

アメリカ大陸を代表する風景といえば、地球規模に壮大なグランドキャニオン周辺はアメリカ西部の風景。

車で走っていても、自分たちがノミのように呑み込まれてしまいそうな迫力で、奇景、絶景、さまざまなかたちを見せてくれる。実際、大地の偉大さを感じずにはいれない風景だ。

”西部劇”は、このアメリカ西部で撮影されていた。
ハリウッドから近くて安上がりで、しかも壮大な映画背景だ。

そして西部劇でよくイメージされるオブジェクトといえば、

・人型みたいな大きなサボテン(弁慶柱
・巨大な建物の廃墟みたいな奇景(モニュメントバレー
それに
・転がるボールみたいな枯れ木(タンブルウィード


どれもこのアメリカ西部の砂漠地帯でしか観られない風景(植物)だが、中でもタンブルウィードは少し特別だ。

なぜならタンブルウィードは、まるで手抜きの映画のセットがうっかり風で飛ばされたかのように唐突に転がってくるからだ。
しかしそれでいて、風が吹きすざぶ荒野の様子をうまく強調してくれる。まるで西部劇の小道具として生まれたかのようだ。

実際、旅でも一度だけ見かけたが、あのタンブルウィードを説明するときに「西部劇に出てくるあれ」以外に説明できるだろうか??

しかし、ほんとにタンブルウィードがそんなにも西部劇におなじみだったのか、確かな記憶があるわけでもないので、ちょっと調べることにした。

↑まずはYouTubeにタンブルウィードが登場する映画をまとめたものがあったので、とりあえず。

とくに西部劇に限らず登場してくるタンブルウィード、荒野らしくもあるけど、場の和ませてユーモラスでもある。

しかし、あんまり印象的な登場とは言えない気がする。

というのも自分には「西部劇の決闘シーンの足元に転がるタンブルウィード」といううっすらした記憶がある。「夕陽のガンマン」か「荒野の用心棒」あたりのクリント・イーストウッドの足元だった気がする。

いかにも西部劇という場面にタンブルウィード。
それが見たい。

そこで、レンタルで視聴してみることにしたのだが、視聴を終えても、この二本にはタンブルウィードはいっさい出てこなかった。

記憶違いだった。

ただし、記憶に似たシーンは「荒野の用心棒」に確かにあった。ラストの決闘シーン、クリント・イーストウッドの足元を吹きすさぶ風。

確かにそのシーンはあったのだけど、風に吹かれて流れるのはただの枯葉で、タンブルウィードではなかったのだった。

↓そのシーンがこちら。

↑自分をかくまって、捕まっても口を割らない定食屋の親爺を助けに、敵の前に姿を現すクリント・イーストウッド演じる旅のガンマン。
吹きすさぶ風が緊迫感を盛り上げる。

1964年のこの頃にはすでにベタすぎるのか、タンブルウィードは流れない。


ところで「荒野の用心棒」には元ネタがある。黒澤明監督の「用心棒」である。(無許可の盗作だったので訴訟を起こされ、のち和解となっている。)

そして”吹きすさぶ風”も元ネタ「用心棒」でふんだんに演出されているのだ。↓

強風のなか、自分を庇う定食屋の親爺を助けに現れた桑畑三十郎(三船敏郎)。荒んだ村の街並みがドラマティックに演出される。

しかしこの演出も黒澤が最初とはかぎらない。むしろ西部劇から黒澤の方が引用した可能性もありそう。そう思うと、この”吹きすさぶ風”はむしろアメリカ西部の気候の風そのものだ。

1960年公開の「用心棒」について、wikipediaには黒澤明の西部劇からの影響に言及している。ただ具体的な例はちょっとわからない。

望遠一発撮影や、遠くからのパンによる迫力ある追いかけ映像、太陽を直接写したり、血糊、斬刀音など、当時誰もやらなかった撮影スタイルを次々発明した黒澤明だが、もし黒澤が西部劇から決闘の場面に吹きすさぶ風の演出を引用したのだとすれば、ある意味、黒澤映画とハリウッド映画は肩を並べて演出力を競っていた、というふうにも見えなくない。


[ドル箱三部作]

タンブルウィードを西部劇中に確認する、というまるでなんの役にも立たなそうな作業だが、「ドル箱三部作」を観れたのはよかった。

黒澤の「用心棒」をリメイクした「荒野の用心棒」は大ヒットし、同じセルジオ・レオーネ監督による「夕陽のガンマン」、「続、夕陽のガンマン」という続編が作られる。三作合わせて「ドル箱三部作」と言うのらしい。(本家「用心棒」にも続編「椿三十郎」があるとこまで似ている。)

この「ドル箱三部作」、1964~66年公開だが、アメリカン・ニューシネマの潮流をすでに取り入れたような作風で、二人の賞金稼ぎが主人公(アンチ・ヒーロー)であり、うっすらニヒリズムが漂う。

敵役のエル・インディオもいかにも悪人というよりは、心の隙間に入ってくるような哀愁を漂わせてくる。明確な勧善懲悪の西部劇とはいえない雰囲気がある。(それは元ネタ「用心棒」にもいえる。)

西部劇も多く作られ、マンネリ化していたのかもしれない。ベトナム戦争が泥沼化し始めるなど、世相的にもニヒルなアンチ・ヒーローが受け入れられたのか。主人公の二人の賞金稼ぎ(クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフ)のアウトローな魅力がそのまま映画の魅力になっている。

個人的に、印象的なシーンを一つ選ぶとしたら、クリントイーストウッドの登場シーン、夜の雨の中、(利腕を隠して使わないため)片手でタバコに火を点けるところ。↓

雨の中、片手で煙草に火をつけられるというのは、器用でデキる男の印象を与える。

それにしてもこの「ドル箱三部作」、あらゆる登場人物が、とにかくひっきりなしに喫煙を吸っている気がする。いや、むしろ大事なシーンに限って登場する気すらする。(そういえば登場人物はほとんど男。)

殺し合いの緊迫感のなか、余裕を見せつけるように煙草に火をつける。アンチ・ヒロイックな矜持でも煙草が表現しているんだろうか。

↑敵一味の出方を伺うために、その一人を挑発するシーン。賞金稼ぎという善とも悪とも言い難い存在を、クリント・イーストウッドとは全く違うスタイルで演じるリー・ヴァン・クリーフ。


セルジオ・レオーネ監督の「ドル箱三部作」は、マカロニ・ウエスタンの代表作であり、それまでの西部劇とは一線を画すスタイルのようだ。今回は、この三作以外はあまり話を広げないようにしたいと思っているので、確認しないが、おそらく、それまでは50年代に活躍したジョン・ウェインのような、”正しく、強いお父さん”像がそれまでの定番だったのではないだろうか。

アンチ・ヒーローとは”正義”の持つ暴力性に対する告発だ。どんなヒーローでも、ひとたび映画になると、必ずアクション=暴力を行使するというジレンマに対する自己開示だ。(あるいは、もっと率直に、正義というものの不可能さ。)

三部作の一作目「荒野の用心棒」では主人公の流れ者は通りすがりの村、見かけただけの家族を救う。二作目「夕陽のガンマン」では、主人公は賞金稼ぎだが、兄弟の仇を討つ。アウトローである主人公たちは、それでも正義を果たすが、「続・夕陽のガンマン」に至っては、”誰がいちばん悪党か”という話になっている。

英題「 The Good, the Bad and the Ugly」の意味は「善玉、悪玉、卑劣漢」で、最後は「善玉」とされるクリント・イーストウッド扮する賞金稼ぎ(三人とも賞金稼ぎ)が勝ち残るが、去り際「卑劣漢」に「お前は善玉なんかじゃねえ」と吐き捨てられる。正義は綺麗さっぱりどこにもない。 

しかしそのラストはむしろ清々しく、純粋に娯楽であろうとする映画が”正義”から解放されて自由を取り戻したようにも思えなくもない。

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