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タイポにクオリアは存在するか?

底部のタイポがだいたい完成。

ちょっと歪んでいたりするが、ドローイングなので、これでよいのだ。のだ。


やっぱりタイポが入ると、なんというかバランス感が整ってくる、というか、単純に、かっこよくなる、というか。(この”かっこいい”の裏にはどこかチートな感覚もある)

しかし、そう思う感覚って、グラフィック(看板、広告とか本の表紙とか)的表象物を見慣れているせいなのか、それとも、もっと普遍的な感覚なのかわからない。

例えば、文字というものを見たことがない人が見ても、やっぱり同じように感じるのか?

感じ方は主観なので、自分の感覚がどれほど普遍的なのかは、なかなかわからない。



クオリアという言葉があるが、クオリアは「主観的に感じたり経験したりすることのうち、確認しようもないのだけど、万人が共通して感じる”質”」みたいなことらしい。 日本語では「感覚質」とも呼ばれるそうだ。

例えば、赤い色を見たとき、他の人が”自分の見ているように赤いのか”は、実際は確かめようがない。このときの”赤いという感覚”などをクオリアという。

漠然として、言葉にしようもないけど感じる「あの感じ」という言い方をしたりもする。


自分が初めてクオリアという名称を知ったのは、FMラジオで横山剣さんが、荒井由実の歌詞について解説するときに使われたときだったのだが、つまり、荒井の歌詞に含まれる、聴き手が「自分のことだ」とか「知っている/わかる」とかいうように”漠然と”感じる「あの感じ」。

それは、必ずしも歌詞の内容と同じ経験をしたとかいうんじゃなくて、むしろ、経験していないにもかかわらず共感してしまえるような何かエッセンスに感じる「あの感じ」ということ。

それは、言語化できない(客観的に述べ立てて説明することができない)ような類いのものなので、正確に答え合わせすることができないので、どこかその感覚に対する不安感みたいなものが付き纏う。それゆえに詩(芸術)というものは存在するわけだが、このクオリアという言葉自体が自分にはクオリア(言葉にならなかった言葉の発見)だった。


案外、「確認しようがないとはいえ多分共通だろう」というけっこう曖昧な認識のもとに世界は回っているのだ。


そして、タイポが、”かっこいい”ように見えるのは、タイポにもこの”クオリア”的要素も入っているんじゃないかと空想する。



エビデンス主義が濃厚で、なおさら、”主観”の問題となると、確かめようもない、客観性もない、と言って切り捨てられることは多い気がする。
社会内で共通認識として扱う無理さを感じて捨て置いてしまうのだ。

しかし、探究研究の分野では、”クオリア”と名付けて「脳科学」として研究され、「主観を客観視する方法」を探る”道しるべ”を、誰かが思いつく(発明する)わけだから面白い。

”不可能”の沼から、”可能”を引き出すような作業だ。

「主観だから確認しようもない」で思考を停止せず、考えることをやめない者によって、新しい知見が発見されるのだ。かっこいい。



クオリアというものを自分は科学的には理解できていないが、「あの感じ」という素朴なところで想像を膨らませると、

タイポがかっこいいと感じたり、絵を見てはっとしたり、という時に感じるものを”美”とするならば、クオリアは”美”と言い換えてもいいような気がする。
(”美”ってけっこう便利な言葉だ。色々な言葉を言い換えられたりする。)

線が整っているとかの”綺麗”に近しい”美”ではなく、真理、普遍性=”ものごとの本質を備えるもの”という意味の”美”だ。

そして、この至るところに遍在する”ものごとの本質”は、実はどんどん因数分解できて、最後にはたった一つの共通項=真実に行きついてしまえるような、言うなればとてもロマンチック(都合の良い理想化)な存在を想像してしまったりする。

あんまり因数分解して雑味を削りすぎると、いつの間にかぜんぶ霧消していたりするような予感。


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