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ハーデンベルギア


 カナコはゆっくりと、しかしきちんと「主人」のほうに向き直って言った。
「本日でわたくしと高田様の契約は終了となります。ご安心ください。わたくしにインプットされている全ての個人情報はこの後ただちに中央センターにて消去の手続きが行われます」
 いつも通りの低めの声でカナコは言った。一昔前の、走行音が静かだと評判であった自動車のような涼やかな機械音が「主人」である高田氏の鼓膜をくすぐった。初めてカナコを自宅に迎え入れたときにはこの機械音にも慣れなかったなと高田氏は回想した。
「ああ……今までありがとう」
 それは二年に一度、メンテナンスのために交代する。表向き人の形をしているし、触れるとややあたたかく、肌触りも皮膚と見まがうほどの完成度なのでつい感情移入してしまう利用者もいるらしい。高田氏もまたその一人らしかった。
 parasonic社のKAIGO-PRO ver.12「カナコ」は二〇五〇年に発売された最新モデルである。若い頃必死に働いたおかげで老後の暮らしは潤っており、ロボット導入をケアマネジャーより勧められた高田氏は「どうせ導入するなら最新型のいちばんいいものを」と思ったのだった。
 寝たきりになってからもう何年が経過しただろうか。文字盤の使い方にもだいぶ慣れてきたし、ひとりの暮らしにも慣れた。
「カナコ、停止のまえにひとつだけお願いがある」
 カナコへの声かけはいつも視線を利用して打ち込むタイプの文字盤で入力し、読み上げシステムにてカナコに伝える。カナコへは読み上げを行わなくても文字盤とのブルートゥース接続がされているので言いたいことは伝わるのだが、対人間の自然な会話の感覚を忘れたくなくて高田氏はいつも読み上げシステムを使っていた。
「なんでしょうか」
 カナコはまっすぐ高田氏の目を見て返事した。高田氏も精一杯首をかたむけてカナコの目を見る。どこまでも奥に向かって伸びていきそうな不思議な立体感のある、緑色の眼球。見ていると遠い世界に連れて行かれそうな心地になり、軽いめまいを覚えた。
「テーブルのAの缶をとってくれ」
 大切なものが入っている缶を、カナコが間違えないように初期設定の際にアルファベットで名前をつけていた。Aの缶はいちばん大切なものだがしょっちゅう出すものでもない思い出の品が入れられている。
 カナコは静かな機械音で室内を横断し、テーブルの上にあるAの缶を取った。手先が精巧にできているとはいえ複雑な形のものをつかむのは至難の業だろう。それでも細い指先を使ってしっかりと缶をつかみ、またするすると高田氏のもとに戻る。
「こちらどうぞ」
「ありがとう」
 カナコにありがとうと言うのはあと何回になるのだろう、と高田氏は思いながら文字盤の予測変換で素早くお礼を言い、缶を開けてもらった。
 するりと缶から滑り落ちたのは一枚の手紙だった。手紙というほどでもない、メモの走り書きのようなものだ。何度も出し入れしては眺めているために紙質がゆるんで変色している。
 カナコはさっとその手紙を拾い、高田氏のベッドの目の高さにある文字盤にマグネットで留めた。「こちらが使用頻度の高い品物です」
「それが見たかったんだ。ありがとう」
 手紙には「ごめんなさい さよなら 紗英」とだけ書かれていた。何度も取り出しては眺めた、くせのある丸い文字。懐かしい文字。しかしこの字が、紗英のものだと認識したときにはすでに全てが遅すぎたのだ。


 けたたましいSPO2アラームが病棟中に響き渡り、看護師が病室にかけつけた。ナースステーションからは看護師長の「またか」というつぶやきが聞こえる。看護師も正直、彼が入院してきてからこの二日間のうち一〇回以上もこのアラームを聴いていたので正直うんざりしていた。
「高田さああん」
 うすいピンク色のカーテンを乱暴にあけ、大きな声で訪室した看護師と看護師長は心の中でやっぱり「またか」と思った。文字盤のレコーダーには狂ったように「帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい」と入力されており、SPO2アラームと人工呼吸器の低換気アラームと文字盤の読み上げシステムによって室内は猫同士のケンカのようにやかましくなっていた。顔面は蒼白、SPO2の低下が激しい。看護師は慣れた手つきで中央配管そばの赤いボタンを押し、バッグバルブマスクを気管孔に接続して換気を開始した。医師が到着し酸素吸入の指示をする。ばたばたと人が集まり、処置が終わるとまたばたばたと去って行った。
「高田さん、どうして自分で気管のチューブを抜いてしまうんですか」
 看護師長が問いかけると、高田氏はまた「帰りたい」「帰れないならば死んだ方がましだ」と打ち込んだ。「わかりますけど、このまま何も準備が出来ていない状態で帰ってしまったら奥様が疲弊してしまいますし高田さんも自宅で不自由な思いをしなければなりません。サポートが整備されるまで少しお待ちください」
 当時の高田氏は一〇歳下の妻・紗英と二人暮らしをしていた。紗英は双極性障害を患っており、高田氏は定年までは経営者としてがつがつ働いて紗英を支えていたが、高田氏六八歳の夏、高田氏の難病がわかってから、紗英は自身の病気をおしてひとりきりで精一杯介護をしてきた。
 がんばりすぎた紗英が重いうつ状態に戻るまでにはさほど時間がかからなかった。高田氏は介護者のレスパイト目的での入院を余儀なくされ、主治医とケアマネは紗英の状態を見るに高田氏には療養型病院にて入院を継続してもらうかもしくは専門の施設に入ってもらう方が良いのではと話していた。
 高田氏本人はそれに猛反対だった。長い間、経営者としてどんなに苦しいときも家計を支えてきた。紗英が動けないときは仕事で遅くなったとしても買い物と料理と掃除はかならず行い、紗英を風呂に入れて洗ってやっていた。自分が倒れたとたんにお払い箱か、と高田氏はさんざん悪し様に主治医とケアマネと紗英を罵った。紗英はただうつむいていた。
 病院にずっといると、このまま誰からも忘れられて魂が死んでしまったような気分になる。高田氏は人に囲まれていないときがなかったほどの快活な人間であったために、さびしさというものに極度の恐怖を感じていた。
 結局ホームヘルパーなどのサポートを導入して高田氏は自宅に戻ることになった。紗英は表面上おだやかに迎えてくれたが、朝はなかなか起きてこず、夕方になると毎日のように別室で一人泣いていた。
 そんな矢先、高田氏の文字盤にクリップで留められていたのがその手紙であった。紗英は高田氏の家から姿を消した。高田氏は横柄であったことを反省したり、紗英への恨み言を言ったり、さびしさを訴えたりとさんざんカナコに話を聞いてもらっていた。カナコには傾聴モードというものがあり、話している間はただただやわらかく相づちをうち、頷いてくれるのだった。
 カナコが機械でできているからと高田氏は人には言えないことなどたくさん話していた。なにを言ってもカナコは傷つかないし、否定もしないから、それでいいと思っていた。
 ただの機械なのだから。

 機械との生活は心地よかった。生身の人間と違い、体調の変化などもない。行動にムラがない。余計な口をきかない。言われたことを不満も述べずすぐにやってくれる。噂話もしない。愚痴も言わない。泣かない。予定も全て「主人」に従って動いてくれる。動作不良にはなにかしらの原因があるんだから、動きが遅かったりおかしいなと思ったらすぐにコールセンターにつなげばいいのだ。
 文明の発達がここまできわまると、生き物同士の愛情なんてものはもはや無駄なのではないかと思えた。特定の機能を期待するのであれば専用のロボットを使えば良いのだ。愛することのまねごとだって、プログラムすれば簡単にできるではないか。愛し合うために必要な言葉なんて決まっているし、ロボットの体内が一定体温に保温されていればぬくもりだって感じられる。現に高田氏の方はカナコとの信頼関係がしっかりと構築されてさえいた。カナコには中身などはないが、中身があるかのようにプログラムされ、中身があるかのように振る舞ってくれる。孤独な高田氏にとってはそれでじゅうぶんだった。

「カナコ。いままでありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 カナコは静かに言った。
「最後に、ひとつだけお話をさせてください」
 カナコが自分から話をすることなど珍しいのでどうしたものかと高田氏は反応した。
「GPSシステム 解除 レコーディングシステム オフ マニュアルモードに切り替えます」
 カナコは緑の目を点滅させながら自身で機能をコントロールした。
 カナコの目が暗く、柔らかい色に変化した。
「ほんとうは規則違反なんですが……ごめんなさい。本部とのシステムを一時的に解除させていただきました。」カナコの口調はこころなしか以前よりもやわらかくなっている。
「陽二さん。いままでありがとうございました。黙っていてすみません。こんなかたちでしたが、陽二さんと一緒に過ごせてわたしはとても幸せでした。わたしが心の病気のせいで思うように動けなくなって、陽二さんにはたくさん迷惑をおかけしたと思います。でもまた会いたくて、陽二さんと一緒にいたくて。つきあっていたころ作ってくれた焼きうどんの味、いまでも覚えています。ほんとうにごめんなさい。ほんとうは直接言えればよかったのに。」カナコの音声に嗚咽のようなノイズが走り、高田氏は過剰な演出を感じた。これも、私が今までに話したことを再現して妻役を演出して思い出を話させるシステムなんだろうか、と考えた。確かに焼きうどんを喜んでもらった話はカナコにしていた気がするが……高田氏はさびしさもあいまって、だんだんいらついてきた。
「ロボットごときに食べたこともない焼きうどんの味がわかってたまるか。そんな思い出をねつ造して涙をさそうような真似をするんじゃない」
 高田氏が入力すると、読み上げシステムが棒読みでカナコへ罵声を浴びせた。カナコはうつむいて、再度高田氏のほうを見てから、また下を向いて「システム シャットダウンします」と発声したのち動かなくなった。目の色と温度は完全に消え去り、そこにあるのはただの鉄の塊だった。
 くだらんことを。機械に人間のこころなんてわかるもんか。わかってないからこんな茶番を思いつくのか。高田氏は心の中でつぶやいた。

 まもなくケアマネがエンジニアを連れて高田氏のうちを訪れた。エンジニアは若い男性で大きな箱を持ってきた。箱を開けるとばらばらになった介護ロボットが入っていた。新しいものを手際よく組み立てたのち、鉄の塊となったカナコをエンジニアはなんのためらいもなく分解し、持ってきた箱におさめた。
「でかいから解体しないと運べないんですよね」エンジニアは驚く高田氏に笑顔で言った。利用者がロボットに感情移入し、解体の際にショックを受けることには慣れているようだった。それでも利用者の目の前で解体されるルーティンとなっているのは、おそらく利用者に現実を突きつけるためだろうと思われた。
「カナコちゃんどうでした」ケアマネは五〇代の女性で、フランクに話しかけてくれた。
「いいロボットだったよ。ただ……」最後の過剰演出について高田氏は口にした。ケアマネはそれをきくときゅうに表情を曇らせた。
「それね、演出じゃないんです。高田さんには黙っていようと思ったんだけど、カナコちゃんはね、遠隔でなまみの人間のコントロールが入って、コミュニケーションや動作を円滑化するしくみになってるんです。このロボットは十数年前にカフェで実用化されたことがはじまりで、自宅から出られない人や体調の思わしくない人も外で働ける手段として広まっていったもので。それが介護業界にも進出したものなんですね」
 高田氏は予測変換で「どういうことかわからない」と聞き返した。
「つまり、カナコちゃんのこころの部分は、紗英さんが操作していたということなんです」
 ケアマネは申し訳なさそうに言った。
「本当は知り合い同士の利用は禁止されているし、こころの部分が誰であるかを明かすのも禁止されているんですが……紗英さんはどうしても、伝えたいことがあったんでしょうね」
 高田氏は黙って聞いていた。
「ちなみに、紗英さんはver12までのカナコをやってくれていたので、今回高田さんが新しく使うタイプのver14サヤカはもう紗英さんではありません」
 高田氏の目は涙でぼやけ、文字盤をしばらく操作できなかった。ケアマネとエンジニアは新しいロボットの設定を終え、しずかに高田氏の家から去って行った。


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