最近、ジェンダーレストイレなるものを利用しました。私の利用したトイレは狭い多目的トイレのような感じだったので違和感を覚えませんでしたが、社会にはいろいろな考えがあるようですね。
ポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性、通称ポリコレ)と、犯罪機会論(犯罪の機械を与えないことで犯罪を未然に防ごうとする立場)のはざまで論争を巻き起こしているようですが、今回は社会の包容力(許容力)について考えてみたいと思います。
ポリコレってなに?
さて、ここで”弁護士JPニュース”が取り上げた、トイレ設置に関する記事が目に留まりましたのでポリコレの観点から紐解いていきたいと思います。
まずは、ポリコレって何?という方の為に、ポリコレの内容を引用します。
簡単にいうと、性差や文化の差・年齢差などの差異を際立たないようにさせることで、マイノリティを含む多様性を維持していく考え方になります。
少し前に議論されていた「男らしさや女らしさ」とか「くん・さん」なんかがいい例ではないでしょうか?
肉体的な性と性自認が異なっている方にとっては、その差異を認識させられるだけで苦痛なようです。
一例でしかありませんが、トランスジェンダーの出生児男性が成人式の日に振袖の女性に墨汁をかける事件が起こりました。その被告は自分の成人式で振袖を着られなかった悔しさを公判中に語っています。
乱暴な話しになってしまいますが、この被告の前を振袖の女性が歩いたことが今回の犯罪の原因になってしまいました。被告に対して自分の出生時の性別を自覚させることは、被告人を傷つける行為と同等なのでしょう。
ポリコレで指摘されるような極端な政治的なカラーは置いておくとして、性別というものを感じさせない社会(ジェンダーレスを許容する社会)が必要なように感じます。
ジェンダーレストイレの意義と危険性
個人的には、現在は多目的トイレといったものもありますので、あえてジェンダーレストイレを作る必要はないように感じます。わざわざお金をかけてトイレを回収するよりも、多目的トイレを増設する方がコスト面で効率的なように感じました。
しかし、肉体の性別と性自認が異なる方にとって、今のトイレのあり方(男・女・多目的)は肩身が狭く感じるひとも多いようで、多目的トイレの増設だけでは解決できないようです。
肉体の性別と性自認の異なる人が肩身の狭い思いをしなくて済むように、歌舞伎町タワーにジェンダーレストイレというものが設置されました。賛成意見が多いかと思いきや、批判的な記事が目立ち、中には犯罪を助長するといった厳しい意見も多く見受けられました。
ジェンダーレストイレを導入している推進派の「性的少数者を社会が受け入れる施設」という考え方と、男女共同だと犯罪者に犯罪の機会を与えてしまうといった反対派の意見がかみ合っていないので、恐らくどちらの意見も理にかなっているのだと思います。特に、犯罪機会論は犯罪者個人の欠陥とは別に、社会構造を考えるものですのでどちらの意見も歩み寄るのは難しい内容でしょう。
もし犯罪の機会を防ぐのであれば有人のトイレにするとかトイレも含めた監視社会を構築するなどの策も必要となるように感じます。性犯罪に限らず、福岡商業施設女性刺殺事件のような痛ましい事件もありますので、犯罪者が犯罪を犯せない街づくりが求められているのかもしれません。
女性を守る権利との兼ね合い
ここまで性的少数者と社会の向き合い方についてまとめてきました。
次に既存の女性を守る権利(主に男性と肉体構造上の不利を補うためのもの)と性的少数者の向き合い方につてまとめます。
社会の方向性として、今後「女性の権利が排除されてしまうのか?」ということに関してはないようです。埼玉県が発表したLGBTQ条例で物議をかもしましたが、性自認によって違法性が阻却されることはないと明言しています。
また、アメリカの下院の話しですがトランスジェンダーの生徒(男→女)は女子競技への参加が禁止すべきだといった議論が起こっています。
当然に日本でもジェンダーレスの運動会に対して批判が巻き起こっています。
男女が平等に輝けるようにするため不足する部分を補ったり区別することと、性的少数者を社会が受け入れるために性差を感じる機会を減らすことと、性的少数者が社会に溶け込めるように包容力のある社会を構築することはそれぞれあまり相性が良くないようですね。
また、どれかを立てれば犯罪者予備軍に付け入るスキを与えてしまうことも問題を複雑にさせています。
女性を守る権利との兼ね合いは難しい問題ですが、既にある権利を減らしてまで性的少数者に配慮すると救われている女性が救われなくなってしまいます。これでは多様性を増やすことによって、既存の多様性を減らす結果になりますので、社会が何も前進していないことになってしまいます。
LGBTQに対する差別やヘイト行為
最近ではLGBTQ禁止法案と失われる女性の権利で揺れていますが、まだLGBTQに対してよくない感情を抱く団体もあるようです。
今、フロリダ州のディズニーランドとフロリダ州でもめていますが、残念ながら「存在自体を意識させない、や、議論すら禁止する」といった行為もいまだに行われているようです。法案の概要は以下に引用しますが、児童が性自認の不一致を学校に相談した場合、両親への通告を行うことも同時に定められていて、社会的に孤立させられようとしていることがうかがえます。
また、日本においてもエイプリルフールのネタとして「同性愛」を告白するようなシチュエーションを投稿する者も多くいるようで炎上を巻き起こしています。本人たちにとって、カミングアウトは大きな山となるでしょう。それを冗談でもネタにするのは、差別というよりも人としての配慮に欠けているように感じられます。
日本における性的少数者の待遇
日本においては今現在、法案が作成されているような状態です。確かに海外と比べて一回り遅い気がしますが、日本の法律の体系によるものも大きく一概に日本が出遅れているわけではありません。
元々日本においては被差別部落問題しかり、差別を禁止する法案というよりも相手への理解を深めようとする法令が主流ではないでしょうか?これは日本はシビル・ロー(大陸法系:制定法主義)によるものが大きいです。コモン・ロー(英米法系:判例法主義)のように慣習的なものを法律として取り込んでいませんので先行して法律を作成することが難しいのです。
今後の社会に期待されること
今後、日本社会が期待されることは性的少数者などを受け容れることにつきます。確かに私も、街で同性愛カップルを見かけた場合、驚くと思います。
これはマイノリティとの遭遇で、その存在を強く意識づけられるからではないでしょうか?フロリダ州の「ゲイと言ってはいけない法」なんかがいい例ですが、日ごろ接する機会がないとやはり強く意識させられてしまうのは仕方ない事だと思います。
そこで、ジェンダーレストイレの話しもそうですが、「女性が~」とか「犯罪者が~」等、偏った意見であっても議論が活性化されることが社会の正常化につながることだと思います。
先日、みた記事にゲイカップルを受け容れる神社があがっていましたが、やはりそこの神主様も渡米経験があり同性愛カップルの知人が多いといったことを挙げていました。
また、フェミニストよりな団体ですが「女性スペースを守る会」といった団体のtweetです。本当に、「トイレだけ」先進国の考えを取り入れても仕方ないと思います。こういった団体の意見を取り込みながら、さらに議論が活性化され、性的少数者であってもイレギュラーではない存在として、社会と共存できる日が来ることが期待されています。