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【#創作大賞感想】 いつかおとなになるこどもへ

「明日急に大人になるかもしれない。」
「ほら、成長ってこんなに寂しい。」
「あの時、もっと抱きしめておけば良かった。」

「タクトト」ゼリ沢梨


おとなって、とても寂しい。
こどもの頃よりも不器用になることがあるし、何かを守ろうとすると、知らず知らず傷だらけになっていたりする。

「タクトト」は、詩と日記を織り交ぜたエッセイであり、「とと」から「たくっち」への手紙である。
そのときは、きっとそうするしかなかったことが、千切れそうな感情で綴られている。
痛みながら進むしかなかった、悲しさ、悔しさを、ちゃんの自分の心と体で引き受けた、その姿勢と眼差しが残されている。
「タクトト」は、悲しい。
だけど、悲しみで終わってはいない。
私はこのエッセイを泣きながら読んだけれど、最後に笑った。

どうか、どこにいてもこの子が笑っていられますように。そんな真っ直ぐな祈りがあった。

こどもは、どんどんおとなになる。
ほとんどみんな、親の見ていないところで。
人生は嬉しいことばかりではないから、こどもが傷ついたときのために、あげられるだけの愛をあげたいと思う。
そのうち、離れて暮らすからこそ。
そしてそれは、一緒に住んでさえいれば与えられている、というものではないように私は思う。

「スノー。」では、ととが遠い街に積もっていた雪を、大きな発泡スチロールに入れて家に持って帰って来る。そうして、お風呂に入っていたたくっちと、その雪が溶けてしまうまで遊ぶ。
私は、この父子の日常を読みながら、こんなふうに人を愛せたら、こんなふうに人に愛されたら、幸せを知っているこどもとして、自信を持って生きていける気がした。


私にもひとりこどもがいて、そのこどもが二歳になった年の冬、朝起きると雪が積もっていた。
当時、私は山手線の停車するとても賑やかな街に住んでいた。朝のラッシュが始まれば、街の雪はあっという間に灰色になってしまう。
だからその前に、まだ踏まれていない雪をこどもに見せたくて、雪を触らせてあげたくて、外へ出た。銀世界だった。
マンションの駐車場に、深夜の雪がそのまま残っていた。
二人で雪に靴跡をつけた。こどもは、まだぶかぶかの長靴で難しそうに歩いた。こどもの後をついて行く。遊ぶふりをして駐車場のわきまで誘導して、並んでしゃがんで、お団子を、それで雪だるまを作ってみる。それからふわふわの雪に指で大きく「雨」と私が書いた。こどもが雨を好きだったから、「これは文字にした『雨』。その下にカタカナの『ヨ』を足すと、この白い『雪』になるの。これが雪。白いね」と伝えてみた。もちろん反応はない。ただ「雪」を見てくれている。
もし、こういう私を他人が見れば、明らかな幼児に漢字を教えていることで、何かを思われる気がしていた。こどもに過度の期待をする母親に見えたかもしれない。だから、自分の好きな育児は、周りに誰もいないところでした。
こどもと並んで歩くことも好きだったけれど、後ろをついて歩くことはもっと好きだった。興味のままに行動してほしかったし、好きなものに夢中になる姿が嬉しかった。

そんなふうに自分なりに、いつもどこかに小さな願いを込めながら子育てをしてきたから、ゼリ沢さんのエッセイから伝わってくるたくっちへの願いが、離れて暮らしたことによるものではなく、たくっちがこの世に生まれてきたことで生まれたものなのだとわかる。

私はママ友がひとりもいないけれど、ゼリ沢梨さんのnoteを読みはじめた頃、「この人とはママ友になれそう」と思っていた。
「タクトト」の中で、こどものととが『たくっち、遊ぼー!』と誘っている。
何度も読ませてもらったけれど、やっぱり途中から泣いてしまう。
そして最後はやっぱり笑う。「二人らしさ」が残り続けてほしいと願う。

ととは、いつまでも注いでいたかった愛を、今もたくっちに注いでいる。
たくっちは、ととの愛をちゃんと受け取れる、素敵な人に育っている。
いつか、愛とごめんねの溢れたこのエッセイを、たくっちが読むとき、二人が二人のまま笑ってほしいと心から願っている。
優しさを互いに渡し続けている、とても仲良しな父子だと感じた。



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