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短編小説 「欲しいものはどこにあるの」


正直な気持ちを気が済むまで話せる場所はどこだろうと考えると、そこはもう、自分の中にしかない気がする。
友達に話したって、当たらない占い師みたいに誰にでも言えそうなことを言われるだけ。
「詩織にはその人じゃなかったんだよ」
「きっとまた次があるから」
でもつらい、苦しいなどと言い続ければ、
「あまり考え過ぎない方がいいって」
「詩織なら可愛いから大丈夫」
って、そればっかり。
気持ちって、そんなに軽いものじゃないのに。

匿名のSNSになら全部吐き出せるかと思ったけど、書いてみてわかったのは、自分が案外言葉を飾って、率直に書けない、匿名の世界ですら他人の目を気にしている、本心を修正してしまう人間ということだけ。
頭の中でなら自由なのに。何を言おうと、人として最低なことをしようと。

十二月の街の色めきを遠目に見て、夢のないクリスマスを通り過ぎて、仕事納めと惰性で参加の忘年会で、今年は残り二日になった。
あの人に捨てられた十二月が、せめて早く終わればいい。


去年の秋、職場の飲み会で気分が悪くなってしまったとき、あの人がすぐに気付いて、上司に断って私を外へ連れ出してくれた。
あの人はいつもそうだ。人のことによく気がついて、さり気なく声をかける。すごく仕事のできる人で、しょっちゅう誰かと笑っていて、当然のように周囲からの信頼も厚くて。ただただ尊敬する先輩として見つめていた。
付き合って2年目の彼女がいて、その人とは遠距離恋愛中だと噂で聞いて、一体どんな人なら、あの人の心を縛れるんだろうと密かに想像することはあったけれど。

予期せずふたりきりになって、店のすぐ裏手にある公園のベンチに座ったとき、酔いよりもその特別な状況に目眩がした。
昼間の寛容が嘘みたいに影を潜めて、頼りなく縮んだ夜の公園。
ふと見れば、きらめく高層ビルの谷間に小指みたいな東京タワーが覗いていて、こんなに完璧な場面はもう二度とない気がした。
酔っぱらっている場合ではないと思った。
「しんどかったら俺にもたれてよ。あっ、深い意味はないから」
本当にもたれたらどんな感じだろう。考えてから、そっと、頭を肩に預けた。
次の瞬間には、自分の行動があまりに短絡的に思えて、さっと元の姿勢に戻してしまったけど。
「冗談ですごめんなさい」
「こんなに顔色の悪い人に、気を遣わせて申し訳ない」
あの人は、少し笑って静かになった。
私もなにか言った方が、と隣を見て、あの人の充血した目が真剣に私を見ていたとき、目を逸らさずにいたらどうなるんだろうと、実験のような気持ちで見つめ返していた。
そうしたら、そのままの顔が近付いてきて、願ったことがほんとになった。

その夜から、何度となく同じ場面を頭の中で繰り返した。忘れないように、丁寧な気持ちでそうした。一喜一憂が癖になって、鏡を見る時間も長くなった。
あの夜、ほんの短いキスをしてから、お開きを知らせる親切な着信までの間、ふたり黙ってただ座っていた。
何か言ってくれることを期待する反面、何か言われたら終わるかもしれないから、ただうつむいて状況に任せた。

会社で顔を合わせるけれど、あの夜から、以前みたいには話せなくて、というよりも近付けなくて、遠くに見かけたときは逃げた。
連絡してくれればいいのにと思いながら。

一週間か十日だったか、日が空いて、会社の帰りに連絡がきた。
指定された店に入ると、壁際のテーブル席に明るく手を振るあの人が座っていた。
飲み物を注文して、もう逃げないと覚悟を決めて、真っ直ぐにあの人を見つめたとき、私はこの人のことが欲しいのだと確信した。
「ちゃんと話さないとと思って。この間のことをどうするか」
「どうするか」
「そう」
「話し合って決めるんですか?」
彼女とは、
「いや……伝えたくなったんだよ」
どうなっているんだろう。
「ほんとは前から気になってたんだ」
「私もです」

その店にいた間中、「俺と付き合って」という言葉を待った。
それか「彼女とは別れたんだ」を。
けれど、三時間近く経っても、あの人の口からはそのどちらも出てこなくて、帰り道で本音を伝えた。
「私と付き合って欲しいんです」
言わなければ、夢見ていい時間だけはたぶん続く。でも言ってしまった。
「うん」
うん、って言った?
「私だけと?」
え? という顔を、今度はあの人がしていた。
「遠距離の、二年目の彼女さんは?」
「知ってたんだ」
はい、という声がぎりぎり出た。
「確かに、彼女はいる。でもちゃんとしようと思う」
「別れるんですか?」
「そうなるよね」

それから一年と約一ヶ月。
私たちは付き合ってきたはず。
クリスマスはみなとみらいで、ピアスとオーナメントをプレゼントしてもらった。
年末年始はお互い帰省で会わずに過ごしたけど、元旦には電話をくれて、帰ったらまた会えるねと話をした。
バレンタインにチョコをあげたら、
「実は、俺からも」
と、逆にチョコレートを用意してくれていて泣いた。
彼女の気配が消えていくたび、あと少し、あと少しで、不安な夜がなくなると信じられた。
春になって、あの人が「もう完全に、彼女とは連絡を取らなくなった」と言ってくれた。我慢してきたぶん、こどもみたいに泣きじゃくった。
「詩織をもっと幸せにする」
って、あの人、確かにそう言ったのに。 


あの人と過ごした夏は、一度しかなかったけど楽しかった。
甚平と浴衣で花火を見た。人混みが恐ろしくて、少し離れた場所から眺めた。
水族館はゆっくり見過ぎて、閉館のアナウンスが流れて慌てた。
ひんやりした美術館では、ひそひそ声で会話をした。いちばん好きな絵の前で手を繋いだ。
井の頭公園のボートで、他のボートとぶつかってしまうたびに、照れながら笑いあって、知らない恋人たちと謝りあった。

九月になると、会う頻度が急に下がった。
返信も遅くなって、これが倦怠期なのかなと慌てた。
でも会社では顔を合わせるから、会えばいつも通りだから、少し待ってみようと決めたあの頃、あの人はどんな気分でいたというのか。

十月の終わり、私の誕生日に、仕事の後会えたのが久しぶりで、ただそれだけで嬉しかった。
誕生日も断られるかもしれないと思ったから。
でもあの人はそんなに嬉しそうではなくて、会話が続かず孤独で沈んだ。

そのまま十一月に入って、去年は「近いね!」と驚きあったあの人の誕生日の前日、ランチに向かうあの人を会社の近くでつかまえて、
「明日会えない?」
と尋ねたら断られた。
「どうして?」
更に尋ねると、
「ちゃんと話すから、また連絡する」
なんて意味の分からない返事をする。
「話すって、誕生日に会えない理由を?」
「うん」
やっぱりよくわからない。
「誕生日に会えない理由を、どうして今話せないの?」
「ごめん」
「なんの"ごめん"?」
「ちゃんと話すから」
「今話してよ!」
思わず声が大きくなった。
「詩織、落ち着いて」
周りの目を気にしながら、この場から離れようとするあの人が憎くなって、自分は絶対に引かないと決める。
「だったら明日話して」
「それはできない」
「なんで?」
「だから、ごめん」
「『だから』ってなに?」
私、そんなに面倒くさい?
「……ごめん」
「ごめんごめんって、さっきから逃げないでよ!」
道行く人が振り返った。
ちょっと、と促されて、目立ちにくい場所まで歩いた。
「話して」
再び立ち止まったときには涙が遠慮なく流れていて、あの人は、黙って私の背中をさすった。

お昼を食べ損ねたまま、今日の夜に話すという約束で社に戻った。
もし約束を破ったときは、職場のみんなに話すと誓って。
一年以上、ふたりのことは秘密にしてきた。
社内恋愛は少なくなく、禁止でもなかったから、私は話したかったけれど。

夜、約束通りうちの近くの喫茶店まで来たあの人は、
「どうしても、少し距離を置きたくなった」
のだと告白した。
「誕生日に会えない理由が、それ?」
「そう。ひとりで考えさせて欲しい」
「何を?」
「いろんなこと」
「別れたいの?」
「それは、正直これからちゃんと考えたい」
この期に及んで、まだ決まってはいないのだと、ほっとしている自分がいた。
「一か月だけ、待ってくれない?」
「……わかった」
なんだか少し、休みたかった。


それから一か月、本当にちゃんと待った。
会社で会えば挨拶をして、笑顔で。
冷静になると取り乱した自分が恥ずかしくて、会社の近くで醜態をさらして、それでも振られなかったことを、まずは喜ぶべきだと思った。


十二月上旬、出張から戻ってきたあの人が、
「今日会える?」
と私に尋ねた。
誘われたことに舞い上がった。我慢が報われたと思った。楽しかった夏を思い出して、会社のトイレで少し泣いた。
素直に待っていて本当によかった。

仕事帰り、指定された店に入ると、奥の席にやたら真面目な顔をしたあの人が座っていた。
入った店も、あの人の表情も違ったけど、今は手を振って笑ってもくれないけど、去年のふたりが蘇って胸がつまった。

私が席につくとすぐに、
「これ、お土産」
と言って、あの人が小さな紙袋を差し出した。
「お土産? いいの? ありがとう嬉しい! 開けてもいい?」
私は心からわらったのに、あの人は何故かわらわない。
「お帰り」
出張のことを言ったつもりが、見たことのない顔をされて変な空気になってしまった。
「それで?」
この空気が変わるように願いながら、笑顔で尋ねた私に向かって、思いっきり、まるで上司に仕事のミスでも謝るみたいに、あの人は頭を下げて、はっきりと言った。
「別れて、ください」
ひと月前、周りを気にして人目につかない場所まで私を移動させた人とは思えない醜態。
あのとき、この人もこんなに恥ずかしい思いをしたのか。
「理由は?」
「彼女と、結婚する」
「彼女?」
私のこと?
「はい、彼女と」
「あなたの彼女、私でしょう?」
「……違う」
「違う、って何? ちゃんと言って?」
「三年、付き合ってきた彼女と」
「だって、だいぶ前に別れたよね?」
あの人はそこで黙った。
「……謝ることしかできなくて、ごめん」
「どうして」
あんまり声が出なかったから、もう一度訊こうとしただけだったのに、あの人は私を連れてすぐに店を出た。

厚手のコートの襟をあわせて、もう少しヒールの低いパンプスで今日は来ればよかったと悔やみながら、
「疲れたからおんぶしてよ」
と怒りのまま訴えると、意外にも、あの人は私の正面にきてしゃがんだ。
冗談だよ、とほんの一瞬許してあげたくなる。
しばらくそのままどちらも動かず、そんなに結婚したいのかよ、と叫んでやりたかったけれど、本当はただ、もう最後なんだとわかった。
わかったから、私はその背中に全体重を任せた。これが私なんだよ、と話しかけるみたいに。
久しぶりに触れあったな。
この感じ懐かしいな。
ほんとにもう触れないの?

重たい? ともしんどいでしょ? とも訊かずに、もういいから、とは言えずに夜空を見た。
予想に反して星が光って、自分が小さなこどもに戻って、お父さんの背中にいるみたいな気分だった。

この秋から冬にかけて、自分はほとんど景色なんか見ていなくて、十二月のイルミネーションに彩られて煌めいた街の真ん中にいることに今更はっとする。
四季はちゃんと移り変わって、もうちゃんと別の季節だった。
「私といて楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
忘れないで。
「だったら、ずっと忘れないで」
忘れないで。
「……うん。覚えておく」


その後、私がしたことといえば、何年も連絡すらしていなかった友達を都合よく誘い出して、弱音と後悔を吐き出す、そして吐き出す。
さらにSNSを使って、弱音と後悔を吐き出す、つもりが中途半端になって投げ出すことくらいだった。

そして、あの人が最後にくれたお土産。
今日やっと中身を見た。
口紅が入っていた。
洗面台の鏡の前に立って塗ってみる。
「なにこれ」
って、思わず声が出るくらい似合わなくて。
別れてはじめて、あの人のことで少しわらった。

全然好きな色じゃなかった。





この「欲しいものはどこにあるの」を、先輩の視点でたらちゃん(たららんどさん)が書いてくれました。
こんなに心を打つってなに? ほんとに。
読みながらどうしても泣けてしまって、泣きながら繰り返し読みました。
大好きな小説です。






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