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『東大に行けなければ死ぬと思っていた。』~私が海外大学を選んだ理由~vol.2

~前回までのあらすじ~
小学生時代は純粋な夢を持つも、中学に上がり社会に染まり偏差値に支配されるようになった自分。高1の1年間は、なんとか高成績を維持し優等生のまま乗り切るが…。

第Ⅱ章 偏差値人間の決壊

高校2年生になった。そしてこの5月、事件が起こる。
私は小5から演劇をしており、ゴールデンウィークは東京公演があった。GW初日から最終日まで、朝から晩までのリハと本番に加えて宿泊施設では小中学生メンバーの引率もあり、学校の課題が全く終わらなかった。普段から課題が多い学校であった上、GWで長期休み分の量の課題が与えられていたため、とても最終日の一夜漬けで終わる量ではなかった。

しかし、どうしても終わらせなければいけない理由があった。私がいた劇団は普段から土日祝日は朝から晩までお稽古があったため、休日も勉強第一主義だった母校の教育方針とはこの世で最も釣り合わない課外活動だった。しかし、高2のその東京公演まではどうしても舞台を続けたかった。だからこそ勉強の結果と日々の生活態度で示すしかなかった。やらせてください、結果は出しますから、と。

最終日の夜、地元新潟へのバスの中で、
残りの課題に向き合った。終わらなかった。

帰宅した。登校まで残り数時間。
終わらせられる気がしなかった。

諦めた。
諦めた。あきらめた。アキラメタ。

私は、舞台が無事終演した高揚感と達成感、そして課題を諦めたという非日常的衝撃の3連発で脳みそを麻痺し、何も考えず、疲労に導かれるまますぐに眠りについた。

朝になった。
一気に現実に戻された。

どうしよう。どうしよう。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。

先生に、評価を下げられる、怒られる。
そんな姿、友達にも見せられない。
完璧な自分が崩れる。

あ、休むしかない。

そして私は親に体調が悪いと嘘をつき、学校を休んだ。

偏差値人間の決壊の始まりだった。



この出来事を境に、自分の中の何かが崩れ始めた。

皆勤賞の記録を破ってしまったこと。
勉強と演劇の両立を達成できなかったこと。
そこから逃げてしまったこと。
そして、完璧な自分が崩れてしまったこと。

悔しさよりも、焦りよりも、「完璧な自分」が崩れたことへの絶望、執着心が自分を追い詰めた。
私は、この日から7日間、学校に行けなくなった。
それくらい、知らぬ間に自分を追い詰めていた。

まだ薄暗い朝方、ベッドから起き上がり、冷蔵庫をあさり、ヨーグルト1個と適当な固形物をひとかけら同時に口に入れ、咀嚼し、のどに詰まらせ、袋に吐き、吐しゃ物を偽装した。

そしてそのまま、親の寝室に行き、
「お母さん、吐いちゃった。」と言いに行き、
学校を休ませてもらった。

狂ってた。

明日こそは、明日こそは学校に行こうと毎日思った。
しかし、怖かった。
「課題が終わらなかったので明日必ず出します。申し訳ありませんでした。」
と、各教科の先生方に職員室を回らなければいけないことが怖かった。いろんな先生が見ている静かな空間で、ひたすら謝罪し回るのが怖かった。
弱い自分を見せるのが怖かった。

課題もテストも、毎日貯まる。
もうどこから手をつけたらいいのか、何から取り戻せばいいのかわからなかった。

親にも言えなかった。
助けを求められなかった。

だから毎朝、吐き続けた。
さすがに毎日吐くのはおかしいと心配され、病院に連れて行かれた。
本当に胃腸炎になっていた。

私はこの日以来、
突然1日学校を休んで結局1週間休む
ということを、高2の1年間で3回くらい繰り返した。

ずっと1番上を維持していたクラスも、国語・数学は1つ下に落ちた。海外大学進学コースに所属していたにもかかわらず(後の章で出てきます)英語まで1つ下のクラスに落ちた時は、廊下で過呼吸になって先生に運ばれた。

他人に弱さを見せられず、結局逃げるしかなくて、
学校とは反対方向の電車に乗って逃亡しようとしたり、学校へ行かず、雪が降りしきる中家に向かって2時間歩いたりした日もあった。

本当にギリギリの精神で生きていた。
0か100か、合格か不合格か、
そこだけで自分を判断して自暴自棄になっていた。
自分を責めまくっていた。



当時の私は「弱さを見せる強さ」が皆無だった。
完璧という評価を得るのに必死だった。
良い生徒で、良い子どもでいようとした。

それが、「いい大学へ行っていい企業に入る」ことへの道だったから。

なぜ、これほどまでに完璧を求め、
成績に執着してしまっていたのか。

当時の自分を振り返っても、今大学生になって課外活動で当時の自分と同じような境遇にいる中高生と接していても思うことがある。

それは、それが日本社会だから。
偏差値がいい人間が、ひたすら机に向かった人間がいい大学に行けるから。

もちろん、ひたすら机に向かって勉強することは誰にでもできることではない。
本物の合格を掴み取ることは、並大抵の努力でできることではない。

しかし、あまりにも“それだけ”だったのだ。

私は、演劇が大好きだった。
舞台上で身体全身を使い、表現をすることが大好きだった。正解のない問いについて考え、仲間と作品を作り上げることが大好きだった。
それが、私にとって“生きる”ことだった。

しかし、その大好きなことは学校では認められなかった。二の次扱いだった。むしろ、「いつまでその“習い事”を続けているのか?早く受験にシフトしろ」という空気を感じていた。母校を特定して言っているわけではない。日本の社会がそうなのだ。

こうして私は演劇を引退して、本格的に自分の進路と向き合うことになった。

(第III章へ続く)

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