見出し画像

宗教について思う 22 自由と教育と思考の広さと

宗教について思う 22 自由と教育と思考の広さと

先日、

仏教のお坊さんとお話しする機会がありました。

いろいろとお話しさせてもらったのですが、

壇家さん(信者さん)が減って困っている

お寺も多いという

お話しが印象的でした。

私のある友人の行っていた高校は、

カトリックのシスターが

校長先生をしていらっしゃったのですが、

そういえば私のその友人も、

別のとき、

教会でもシスターのなりてが減っているという

話をしていたことがありました。

これは伝統宗教だけではなく、

新興宗教でも事情は同じであるようです。

いろいろ調べると、

新興宗教の方もやはり信者さんが減っている
ようです。

新興宗教の方こそ、

そのあたりの時代の変化や

人々のニーズに敏感でなくてはならないはずで

あると思うのですが・・・。

私は宗教者ではありませんし、

特定の宗教を持ってもいませんが、

歴史を少しだけ学んだ者として、

そのあたりのことを少し考えてみたいと思うのです。

私は

現代、宗教が、

いらないものとされているのは、

(これは誰もが納得してくれると思うのですが、)

単純な話、

宗教があぶないものであると思われている

からであると思います。

では、現代、

宗教があぶないものであると思われてしまって
いるのは

なぜでしょうか?

それは、

宗教に私たちの自由が奪われる感じがするからでは

ないでしょうか?

宗教にのめり込んでいる人と話すと、

行動の自由だけではなく、

思考の自由から奪われてしまうという感じが

しないでしょうか?

私は祖父が禅者であったり、

母がキリスト教を信じていたりということもあって、

どちらかというと、

宗教に好意的な方ではあるのですが、

それでも人々のこの直感はまちがっていないと

言わざるをえないと思います。

宗教に入っている人は、

他人の価値観はおろか、

ときに、

科学的な事実さえ認めようとしません。

宗教者や信仰者の人は認めたくないかも
しれませんが、

過去、それらの宗教ができた時代と違って、

(新興宗教はできた年代自体は新しいですが、
やっていることは数百年前の宗教とあまり変わらない

のではないでしょうか?)

人々に自由や、

教育が行き届いた現代、

宗教の教えよりも、

宗教を持たない私たちの思考の方が広いものに
なってしまって

いるのです。

本来、

宗教とは、

無限なものを見つめることであると思います。

つまり宗教には、

知的で自由でとても広い思考をするものである
という

側面もあると思います。

無限を見つめる人の思考は本来、

何よりも広く自由なものであるはずです。

実際、歴史において、

宗教の存在は自由主義の成立に欠かせない
もので

あったはずです。

その、

無限なるものを見つめるものであるはずの

宗教が、

一般の宗教的ではない私たちの思考より

狭い思考をするようになってしまっているのはなぜで
しょうか?

私はそれは、

宗教が無限なものではなく、

有限な狭いものを見つめ、

そしてそれを守ろうとしているからでは

ないではないかと、

つまり、

宗教が宗教的ではないものに関心を持って
いるからでは

ないかと思うのです。

宗教が守ろうとしている

有限なものとは、

過去の時代的制約に基づいた

教義や戒律、

あるいは伝統や習慣であるでしょうし、

(歴史上、

過去の時代的制約に基づいた教義を守ろうとした例で
大きなものを挙げるとするなら、

カトリック教会(キリスト教)が教会の名において
天動説を否定したことです。

地動説をとなえる
ジョルダーノ・ブルーノを火刑にしたり、
ガリレオ・ガリレイを裁判にかけたりしたのは有名です。

キリスト自身は別に天動説をとなえてはいない
のですが・・・。)

もっと現実的なものとしては、

教団の利益や権威、

あるいは宗教者個人や信仰者個人が自己肯定を
すること

(偉いと思われたいがゆえに個人に対する尊敬や
崇拝を強制するということ)

などであるでしょう。

現代、

宗教の思考が、

一般の私たちの思考よりも狭いものになって

しまっているのは、

宗教者や信仰者の人たちが、

無限なものよりも、

そのような有限なものの方を大切に思っているからで
あるのでは

ないでしょうか?

現代、

宗教に入る人は、

いえ、宗教に存在意義があると考える人は、

伝統宗教、新興宗教を問わず、

どの宗教でも減っています。

宗教は現代、もう必要とされていないのです。

それでももし、

宗教者や信仰者の人たちが

宗教ということをまだ存続させたいと
思うならば、

宗教は宗教にしかできない役割をはたすしか

ないでしょう。

現代の、

自由と教育の行き届いた社会において、

宗教にしかできない役割とはどのようなもので

あるでしょうか?

私はそれは、

無限なるものを見つめるということでは

ないかと思います。

人々が自由になり、

教育も行き届いた現代こそ、

宗教者や信仰者の人たちは、

有限なものではなく、

本当に無限なものを見つめなくてはならない時代と

なっているのではないでしょうか?

白鳥静香

追伸

私は

「宗教は現代こそ本当に無限なるものを
見つめなければならない。」

と言いました。

無限なるものを、

言葉という有限なもので定義することは

できませんが、

それでもあえて定義するなら、

私は無限なるものとは「愛」であると思います。

無限なものを見るとは、

宗教者や信仰者のひとりひとりが、

現世的な価値観では

とうてい受け入れることができないような人を

受け入れること、

つまり、

人が愛せないような人を愛することであり、

人が許せないような人を許し、よりそうことであると

思います。

私は、

愛は、

見捨てることがないということにおいて、

私たちの知るもののうちで、

最も無限ということに近いのではないかという

気がするのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?