見出し画像

エンタメ以上になれない私達



「もうそろそろ帰りましょうか。」

電気を全て消したにも関わらず、この部屋はそこはかとなく薄明るい。
閉め切った部屋の窓からはどこからか太陽の光が漏れていて、既に動き出した人々の喧騒が小さく聞こえてくる。
もうこんな時間…。
そんなことはホテルに入る前からわかっていたことだった。
互いに了解した上でここにいるのに、もう何も楽しいことがないかのような終わりの空気に2人とも既に耐えかねていた。

「不眠症気味なんです。」と言った彼の言葉通り、私たちは3時間も眠ることができなかった。
実は私も…そう言いかけて、彼はそんな私の事情に興味がないことを悟る。
片方が不眠症気味なのであれば、もう一方はどこでもぐっすりと眠れる健康体でなくてはならない。
両方とも不眠気味だということはこの場合、互いにとっての同胞を見つけたという意味にはならない。
それどころか同じ欠落を持つが故の失望すら呼び起こす。
実際私の危惧は実に的を射ていて、我々は昼まで待てずにホテルをでることになったのである。
本当は相手が寝ている隙にホテルを出たかったのだけれども、それすらやはりお互いに同じ企みをしていたのかもしれない。
相手の深い寝息を聞くまでは…と考える私たちは、お陰でベッドから一歩も出ることが叶わなかった。

_________________________

入室前。
彼がホテルの精算を済ませている間、私はロビーの真ん中を貫いている、大きな柱の影に隠れて待っていた。
これは抗い難い情動に後押しされている、現実からのドラマティックな逃避行…。
そうであるかもしれないと考えるだけの、ちょっとした暇つぶし。
あまりロマンティストではない私なのに、こういう時は何となく間が悪い心持ちになる。

顔の見えない窓口に向かって、薄い紙切れを数枚差し出している彼の後ろ姿。
それは何だか頼りなさげで、ちょっと滑稽にも見える。
顔を、身体を、その表とされる面を、鏡に映して丁寧に服を着せている。
なりたい“顔“を、所属したい文化を、生白い皮膚の上に乗せて色をつけていく。
肩から胸にかけて着けている、”社会”や”地位”や”知識”というバッジを、キラキラと光らせている。
そして、そっと懐から見えるさりげなさを装うために私達は上着を羽織っている。
曖昧で不合理で、あちこちに散らばった不統合の意識を辛うじて閉じ込めたものが“人間“という生き物であるならば、この不気味さを説明する表現の為に、衣服やアクセサリーという装飾物があるとも言えないだろうか。
あらかじめ立て看板をさしておけば、「これは一体何の花ですか?」と尋ねられることもない。
いつの間にか中庸な感覚を失って、ちょうどいいところで物事をやめられない私は、この彼のようにバランス良く丁寧に着飾る人を単純に尊敬している。
そこには他者という存在を意識して止まない細やかな神経があり、相対的に社会に参加している“自分“を演出しようとする意思がある。
これを一般的には「思いやり」と言ったり、「TPO」と言ったりするのだろう。

そう、私は彼の思惑通り、彼の表面に魅了された訳である。
しかしながら、私が心の底から渇望していたのは、そんな丁度いい社会性だったのだろうか、という疑問が頭をもたげてくる。

適当なバランス感覚を備えた“大人“を目の前にして、私の情欲が掻き立てられないのは、時間にして一時間程度の秘事に一体なんの意味があったのだろうかと振り返ってしまう私がいることを予見してしまうからだ。
きっと彼は普通の情事をするだろう。
丁寧で、かつバランスの取れた気遣いを私に示すことだろう。
いまだ暑さの残る秋の始まりに、ひとりで家路に着きながら、「あれは一体なんだったのだろうか」と考えながら、寄る辺なくコンクリートを踏みしめる自分の姿がなんとなく想像できてしまう。
話しているその最中からこの秘事が始まっているとするならば、きっと思うようにいかない相手だろうというところまで、やはりわかる。

今こうして柱の影に隠れている自分は寂しさに狂っているのではない、と思いたい。
とはいえ、相手に並々ならぬ好奇心を抱いているとも言い難い。
あるとすれば、バイオリズム的な性欲とちょっとした打算だ。

これが映画であればストーリーに必要のない部分は全てカットされていて、次の瞬間には小綺麗に整えられたベッドサイドに切り替わっている筈だ。
なまじ時間があるからこんなことを考えて気がついてしまう、それが現実に生きている私達の理不尽である。

私はぼんやりと、幼い頃に同居していた祖母を思い出す。
新聞の「ゲーム中毒」の記事を見つける度に、鬼の首を取ったかのようにその切り抜きを摘んで見せてくる祖母を、私は小煩く感じていたものだった。
電子機器など持ったことがない田舎の祖母にとって、小さな画面に映し出される煌びやかで鮮やかな世界は、まるでハーメルンの笛吹のように子供達を現実から連れ去ってしまう毒のように思えたようだった。
現実に追われている今でこそ、何が幻想なのか判断がついてしまう。
夢を見続けることの方が難しいのだから、無理に醒めさせる必要もないだろうに。
今となってはあの幼少時代が夢のように思えてしまう。
息を飲むほど鮮やかな夏の山々、岩を砕くほどの川の流れ、咲き乱れる五月の葵…。

肌に感じる風よりも、世間の逆風の方が骨身に染みる。
虚構漬けにされて、生きている実感すら得難い現代病を“ゲーム脳“というのであれば、私はすっかりそれに毒されている。


こんな退屈な時間をどうやってやり過ごすのか。
そんなことを考えながらも、そもそも間が悪いなんて考えている自分が嫌になってくるのだ。
いっそ、このまま逃げてしまおうか。
幸い相手は背を向けていてこちらに気が付かない位置にいる。
次はどこで会うとも分からない相手ならば、据え膳を食ったことすら面白おかしく消化してしまうだろう。
私だけが気づいている、私だけの悪戯。

「あ、こんなところにいたんだ。」

彼の呟きによって、私の企みは案外あっさりと終わりを迎えた。
「いなくなったのかと思った。」
そうにべもなく言い放つ彼は、大して面白みもないといった風情で続けて言う。
「いなくなっていたら面白かったのにね。」

ああ、私も全くそう思いますよ。
こんなところまでわかってしまうのに、私たちはエンタメ以上の楽しみをお互いに見出すことができないのですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?