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#2000字のホラー

 今から20年も前の話である。私は毎年10月の下旬に群馬県の赤城山に行くのをこの季節の自分の年中行事としていた。ちょっと訳があって始めたことであったが、この時期の赤城はまさに紅葉が見頃であり、いつしかそれは、深まる秋の季節の楽しみな行事となっていた。
 その年も私は赤城に行った。買ったばかりのVW GOLF に妻と職場の同僚の男女二人を乗せて四人で楽しく出かけて行った。赤城山の頂上近くには「大沼」と書いて「おの」と読む大きなカルデラ湖があり、湖畔には土産物屋やら食堂やらボート乗り場やらがいくつもあって、観光地として賑わっていた。その一角に、他の店とは一線を画すようなバラック様の食堂があった。名を「岩魚屋」と言った。店構えはかなりアレだが、金串・炭火で焼く岩魚の塩焼きや、時間をかけて煮しめた岩魚の甘露煮はまさに絶品で、知る人はまず他の店で食事をすることはなく、したがってボロい店なのにいつも客が大勢入っていた。
 だがその年は、私たち四人が店に入ると珍しく客が誰もいなかった。
「いらっしゃい。今日はがらがらだから銀座四丁目がすわれるよ!」
いつも迷彩服・迷彩帽で下駄をつっかけている名物親父が焼酎の入った湯呑みをその辺に置きながらそう言った。銀座四丁目とは、この店一の特等席の名だった。店の真ん中で親父が岩魚を焼く姿がよく見える。話も弾む。だが私には前から座ってみたい席があった。それは親父が「網走番外地」と呼ぶ、薄暗い店の一番奥の席だった。
「あ、大将、網走番外地、良い?」
私は同僚に自分がこの店の常連であるかのような格好をしたくて、そう言った。親父は「物好きだねぇ」と笑いながら店の奥に
「お勝手軍曹! 番外地に四名さん!」と言った。
 私がこの席に座りたかったのには、実はもう一つ理由があった。テーブルがとても変わっていてそれを近くでよく眺めたかったのだ。いつも大勢の客がいるから席は選べない。遠慮がちに遠くから見るだけだった。そんな訳で、その網走番外地にしてもらったのだった。
 番外地の四角いテーブルは、それこそ甘露煮のような色合いの木製だったが、真ん中にお盆くらいの大きさの円い鏡がはまっている。その鏡の底の銀の膜は経年劣化で大分くすんでいたが、それがまたなんとも言えない深い味わいを生んでいた。
 私たち四人は岩魚の塩焼き定食を食べ、話に花が咲いた。だがしばらくして、薄いガラス窓の外が赤く光ったような気がして目をやると赤色灯が回っていて、警官の姿が見えた。私がそちらの方を見ているとそれに気づいた親父が
「“この”だな。そんなところにゃ誰もいねぇよ」と言った。事情を聞くと、一昨日あたりから女が一人、行方不明なのだそうだ。「この」は車で5分くらいの所にある「大沼(おの)」より大分小ぶりなカルデラ湖のことだった。字は「小沼」と書く。親父の話だと去年あたり周囲に遊歩道ができはしたが茶屋一つない寂しい沼だとのことだった。行方不明の女はそこにいると親父は言う。私たちは単なる野次馬根性から、その小沼に行ってみることにした。
 小沼にはすぐ着いた。本当に五分ほどだった。小さな駐車場に車を停めて降りてみたが、賑わっていた大沼と違い、そこには誰もいなかった。
 「小沼」は思っていたよりも随分大きな湖だった。直径はゆうに二百メートルはあるだろう。車窓から見たその大きさにまず驚いたのだが、車を降りた私たちはもっと別のことに心底驚いた。今に至るまでそんな経験は他に一度もないのであるが、小沼は、完全な無音で、完全な無風で、樹木を除けば我々以外に生物の気配が皆無であり、そして真円に近いその大きな小沼は、さざ波ひとつなく、湖面は見わたす限り完全な平面で、それはまさに巨大な鏡のようであった。
 私には所謂「霊感」のようなものはない。物事は科学的・論理的に考える方だ。その私が、その場の空気に疑いようもなく“尋常ならざるもの”を感じ取っていた。妻も同僚たちもそれを否応なく感じているようで、皆顔を引きつらせたまま無言になっていた。
 少し歩いて誰からともなく踵を返し、車に乗って岩魚屋へ戻った。買い忘れた親への土産の甘露煮を買うためであったが、四人ともあまりのショックに熱いお茶でも飲みたい気分だった。誰かに話して何かを祓いたい気分だった。再び網走番外地に座った私は、興奮気味に親父に言った。
「大将、小沼、ありゃヤバいね!」
「だろ? すり鉢だから、深けぇんだよ。髪の長げぇ女だったってよ。さっき警官が聞きにきたよ」
親父の話はあちこち飛んでいたが、頭の中でつながりはした。お勝手伍長がお茶を持ってきた。
「大将、あれは… なんなんすかね?」
親父は私に顔を寄せて小声で言った。
「底にゃ屍体がるいるいよ…」
テーブルにお茶が置かれた。私は親父から鏡の上に置かれた茶碗に目を移した。

その時

経年劣化でよく見えなくなった鏡の底に、私は小さな何かを見た。ゆらゆら揺れる、黒い何かだった。

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