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お江戸お仙の千里眼【第三話 死に臨む体験 二】

 お仙が最初に思ったのは「気持ちいい… 良い匂い…」だった。辺り一面の花畑である。五色の花々が地平の彼方まで咲き乱れ、心地良い風が頬を撫で鳥や蝶や蜂などが楽しげに飛び回っていた。道は真っ直ぐに続き、後ろも前も地平線の彼方に消えていた。
 思考はそれまでに経験のないほど澄み渡り、心はえも言われぬほどの心地よさに満たされていたが、どこかで「あたしはお団子を作っていて煙に咽せたはずだけど…」とわずかに訝ってもいた。だが歩き出してみるといよいよ気分が良くなり楽しい気持ちになって、いつしかそんな疑念も消えて小躍りするように小道を進んで行った。
 しばらく行くと、やや強い風に吹かれて目を閉じた拍子に声をかけられた。見ると五間ほど先にお仙と同じくらいの年恰好の少女が二人いて道の傍の大きな石に腰掛けていた。三人は何年も前に一度だけ会ったことがあるのを知っていた。三人とも少し大きくなって容姿も多少変わってはいたが、会ってみると不思議と何の違和感もなく話せるのだった。二人とは、もちろんお藤とお芳だった。
「お藤ちゃんとお芳ちゃん。こんな所で何してるの?」
と、お仙が聞いた。するとお芳が
「お仙ちゃんこそどこから湧いて出てきたのよ」と言ってふふふと笑った。話してみると、三人とも気がつけばここにいたということが共通していた。お藤とお芳が少し先にいて久しぶりなどと言い合っているところにお仙がふっと現れたと言う。三人揃うとさらに愉快な気分になってお互いの顔を見て笑い合った。
 お藤が「それじゃ、行きましょ」と言った。お仙とお芳は、どこへ行くのか、なぜ行くのか、何の疑問も感じずに頷いて、三人ながら地平線の彼方まで続くその野の道を歩き出した。順にこれまであったことを話しては笑ったり驚いたりして歩いた。道々話している内に、三人にある共通の経験があることが分かった。それは三人とも、他の人にはない特別な力があるということだった。
 お藤はふとした瞬間に、十間かそれ以上かの高い所から、自分の周囲を見下ろし見回すようなことができると言う。それができるのは昼間だけで、見える範囲はせいぜい地上の自分を中心に十間四方かそこらで全体にぼやけて見えることが多く、しかも思い通りにいつでも見られるわけでもないが、見たものについては間違えたことは一度もないのだと言う。お芳の場合は、自分の周囲の人の心の中の声が聞こえることがあるのだと言う。時には犬や猫の声を聞いたりすることもある。いずれにしても、自分の望みと関係なくそれは聞こえたり聞こえなかったりし、大抵は注意しなければ分からないくらいの小さな声でしかも雑音が混ざっていることが多い。そして人の心の声、すなわち心の中の言葉を聞くということは、人の心の醜い部分を聞いてしまうことがほとんどであり、気が滅入る思いをすることがとても多いのだと言う。
「お仙ちゃんのは?」
自分の特別な力について話し終えたお芳がお仙に話を振った。
「あたしは…… 自分がいる場所で、ちょっと前にあったことが分かるの」
「その場にいなかったのに? 何があったか分かるの?」とお芳。
「そう。何があったか全部分かる。それほど前にさかのぼれるわけじゃないんだけど、なんか分かるの」
「へぇぇ。何かをどこかに置き忘れた時とかすごく便利ねぇ!」
とお芳が笑った。しばらく黙って聞いていたお藤が
「それって、過去にあったことだけ?」と聞くと、お仙が答えた。
「うぅん。実は、これから起きることも分かる… ことがある。せいぜい四半刻くらいまでなんだけど、この先何が起きるのか分かる… ことがある。ただし、自分のことだけはなぜか分からない…」
「ホント?! それ、すっごーい!」お芳はのけ反るようにして驚いた。お藤は、
「それ、思い通りにいつでもできるの?」と聞くと
「全然思い通りにならない。しょーもない時に出たり、心の底から出したいと思っても出なかったり。目を閉じて『んんっ』って力むと出てくれることが割と多いかな」
お仙はそう言ってやや自嘲気味に笑った。それを聞いてお藤が、
「思い通りにならないのは、みないっしょなのね」
といって肩をすくめて笑った。お芳もふふふ… と笑っている。
「二人は、何て呼んでるの?」唐突にお仙が聞いた。
「呼ぶ?」お藤とお芳が同時に聞き返した。
「そう。その自分の力を何て呼んでる? 多分、二人も初めは自分と同じことがみな誰でもできると思ってたでしょ? あたしもそうだったんだけど、段々、これは自分だけの特別な力だって気づいてきたの」
「そうそう。あたしもそんな感じ」とはお芳。お藤も頷いている。
「それでね、あたし自分のこの力を『千里眼』って呼んでるの。うまい名前だと思わない?」
「千里眼… 確かにぴったりの名前ね」お藤が応じた。お芳は「あたしのは千里耳? カッコ悪いからあたしも千里眼って呼ぼーっと!」と言ってコロコロと笑う。
「そう。あたしたちの、千里眼…」

 十年も二十年も、随分長いこと歩いたような気がする。たがそれはほんの一瞬であったようにも思える。三人とも、話したいと思うことを全て話したと思っていたところだった。お仙が十間ほど先の道の右脇にそれを見つけて「あ…」と言った。お藤とお芳もお仙の視線の先でそれを認めた。お芳が「あれ…」と声を漏らした。三人ともそれに見覚えがあった。それは三人が浅草寺で初めて会った時に見つけてお参りをした古く小さな石の祠だった。
「あの時のままね。なんか… 良かった…」とお芳が言った。
「そうね…」お藤もそう言って目を細めている。お仙もウンと頷いた。見れば祠の周りはあの時のままに落ち葉が払い除けられており、祠の屋根はかつて三人が力を合わせてそうした通りに乗せられていて、正にあるべき姿であるべき静寂に包まれてそこに佇んでいるのだった。ところがかつて三人が神前に置いた供え物はその場には無かった。お仙はわずかに疑問に思ったが、お藤があの時と全く同じように「今心の中にある、一番大事なお願いをするのよ?」と言って祠の方に進み出るその頭には、いつのまにか純白に輝く鼈甲の櫛が刺さっていた。見ればお芳の帯にも真っ白い鯉の根付けが揺れているので、「あぁそうだったっけ…」となぜか不思議さが消えてちょっと左手を動かしてみると、袂の中に石の重さをはっきりと感じるのであった。
 そうして三人揃ってその場にしゃがみ、供え物をした。以前より少し大きくなった手でかしわ手を打ち真っ新な心でその手を合わせた。一番大切なことを願う。それは今もかつてと全く変わることはなかった。

江戸の町が平和で、みんなが幸せでありますように…

 三人が心の中でそう唱えた時、六年前と全く同じように急にふわっと風が吹いたかと思うと祠の間に微妙なバランスで挟まっていた小砂利が弾け飛んで祠がゴトッと鳴った。三人同時にハッとして目を開くとそこには道も花畑も青空もなく、数限りない星々がまたたく夜空の只中に祠と三人だけが浮かんでいるのだった。驚愕する三人は、目に見えない力でゆっくりと三方に引かれ始めた。もがき遠ざかりながらお藤とお芳が口々にお仙に叫んだ。
「お仙ちゃん、きっと会いに行くから! きっと!」
「うんっ! 待ってる! きっとね!」お仙も叫び返した。

………

 お藤が目を覚ました。

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