『空中都市アルカディア』23
三、 歴史哲学
シロンはしばしばユラトン教授の自宅に質問をぶつけに行った。ユラトン教授もこの若い好奇心旺盛な若者を歓待した。研究室には大きな書棚があり古文書が並んでいる。机の上は書物で散らかっていて、飲み干したばかりのコーヒーカップが置かれてある。
「先生、本当にこの宇宙にもうひとつ地球があるのなら、そして、このアルカディアが本当に宇宙船であるのなら、そのもうひとつの地球に行くことはできますか?」
ユラトン教授は言った。
「できる」
ユラトン教授はひと言そう言い、少し唾を飲み込んでから続けた。
「君は行きたいと思うか?」
シロンは答えた。
「行けるものなら」
「だが、行くまでに数千年かかる」
「数千年?」
「それに今、このアルカディアが宇宙船としてこの地球から去ったらこの地球はどうなる?混沌としてしまうだろう」
「でも、ぼくはもうひとつ地球があると知って、ふたつの地球は連絡を取り合うべきだと考えました」
「なぜだ?」
「え?だって、おかしいじゃないですか?同じ人間が何の連絡もなく別の星に住んでいるなんて」
「もうひとつは愚者の星だぞ」
シロンは主張した。
「愚者ってなんですか?そんなにアルカディア自由市民とそれ以外の人間に差があるんですか?」
ユラトン教授は顎髭を撫でて言った。
「ほう、君は愚者が好きか?」
シロンは考えて言った。
「愚者の定義がわかりません。この前、密航を企て目潰しにあったマリシカはアルカディア人ではありませんがいい子です。それにこのアルカディアの権力者には悪い人間がいます」
「悪い人間?誰だ?それは?」
「今は言えません。とにかくぼくは愚者と賢者に人間を分けて考えることがおかしいと思います」
ユラトン教授は笑みを浮かべた。
「ふふふ、その発言、犯罪的だぞ」
シロンはそう言われると怖くなった。だが、次のユラトン教授の言葉でその恐怖はなくなった。
「わたしもそう思う。愚者と賢者の境い目などない」
「え?」
「この宇宙船アルカディア号には操縦席がある。千年以上自動操縦になっているため現代人が入ったことはないがな。もうひとつの地球へ行こうと思えば行ける。だがな、行ったところで意味はないとわたしは思っている。人間の幸福には関係ないのだ。もうひとつの地球では科学者は貪欲で、宇宙の構造を解明しようとしていた。そのために政府は巨額の費用を投じた。社会問題を棚上げにしてだ。いわゆる賢者たちはそれを嘆いた。節度のない科学を。賢者たちはすべての生物の幸福のために科学があると信じた。それを実現するためにアルカディアを造りこの星に移住したのだ。君のように知識欲旺盛で何でも知ろうとすることを美しく思わない倫理が生まれたのだ」
「でも、真実の歴史を知ってしまった以上、もうひとつの地球のことがぼくの頭から離れません」
「ではこういうのはどうかな?」
ユラトン教授は笑顔を見せた。
「わたしが言った、もうひとつの地球があるというのは嘘だ」
「え?」
「やはり、地球には地殻の大変動があり大地は海に没した。そして。アルカディアに逃れた人々は洪水が終わると大地に再び降りた。それが真実の歴史だ」
「で、でも、もうひとつの地球があるという説は・・・?」
「それも真実だ。どの歴史の中を生きるかは本人の自由だ。だいたい歴史などいくらでも作られる。君にとっての生きやすい歴史が君の歴史だ。わかるか?」
「でも、もうひとつの地球があるというのは事実ですよね?」
「何を信じるかで事実は変わってしまうものだよ。それとも君はもうひとつの地球があると考えて生きたほうが幸せか?」
「じゃあ、なぜ、先生は最初の講義で、もうひとつの地球のことを教えたのですか?」
「それは、政府がそうしろと言ったからだ。アルカディア自由市民にとって愚者たちの星を抜け出してきたという選民思想は重要だと考えられているからだ。そのために現在のアルカディア自由市民と愚者という身分制度ができているのだ。しかし、賢者と愚者を分けないという危険思想を持つわたしは、アルカディアは地殻の大変動の際に洪水から逃れるため人々が浮かべた島であるという歴史を信じる」
「嘘の歴史を信じるのですか?」
「そうだ。いや、というか、今後の政府の指示通りに行うわたしの授業をきちんと聴いていれば大洪水のほうを真実の歴史であると信じるようになる。選民思想を持ちながら、愚者に秘密をばらさないほうが世界のためだと理解するようになる。結局は私個人が信じる歴史と政府の指示で教える歴史は同じものとなる。嘘でも行動原理とすれば真になるものだ」
「でも・・・」
「アカデメイアの授業を聴いていれば、別の地球から来た賢者たちが我々の祖先であるという真実を持ちながら、実践的な真実として大洪水説を信じるようになるのだ」
「でも、真実は、大洪水説ではなく、もうひとつの地球があるという説ですよね?」
「まあ、どう考えるかは君次第だ」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?