『空中都市アルカディア』22
二、 密航者
翌日、シロンはアカデメイアの講義を終え、都大路をパンテオンに向かって歩いていた。すると前から警察官数名に引かれて両手を縛られた若い女が歩いて来た。背が低い黒髪の女だ。シロンは遠目に見ていたのでその女の顔は見えなかった。次第に近づいてきて顔の造作がわかってくると、シロンは目を疑った。十メートルほどの近さになるとシロンは声を上げた。
「マリシカ!」
若い女は顔を上げ、シロンを見た。
「シロン先輩!」
「どうしたんだ?なぜここにいる?しかも縛られて?試験には落ちたんだろ?」
マリシカは涙を流しながら笑顔を見せて言った。
「空中列車に忍び込んで密航しようとしました。ライオス先輩にどうしても会いたくて」
警察官のひとりがシロンに言った。
「あなたはこの女と関係があるのか?」
「その子は下界にいたときの学校の後輩です」
シロンがそう言うと、警察官は言った。
「では、あなたも来てください。アゴラで裁判をします。密航者は取り調べなくすぐ裁判、すぐ刑に処し、追放するのがアルカディアの法律です」
「密航者の刑罰はたしか・・・」
シロンが受験勉強でやったことを思い出そうとしていると、思い出すより先に警察官が言った。
「目潰しの刑です」
シロンはゾッとした。
マリシカは泣き叫んだ。
「嫌よ!やめて!わたしはただライオス先輩に会いたかっただけ、また四年後に試験を受けて合格して、それから会うんじゃ、あの人は他の人と結婚しちゃう。目潰し?そんな、許してください!」
警察官たちは暴れるマリシカを無理矢理引っ張って、大きな凱旋門のほうに連れて行った。
シロンは警察官に囲まれたマリシカを追い抜き、走って大きな凱旋門のほうへ急いだ。
「シロン先輩!わたしを見捨てるんですか?」
マリシカは泣き叫んだ。シロンは後ろを振り返り叫んだ。
「ライオスは行政長官オクティスの護衛官をやっている。行政長官の権力で何とかならないか懇願してみる。もし、それがダメならアイリスの婚約者で立法長官のシマクレスに懇願して来る。だから、マリシカ、安心しろ。目は潰させない。無傷で下界に帰す」
マリシカは叫んだ。
「ライオス先輩に会わせて!すべてはそれから・・・」
「わかった。ライオスを探してくる」
シロンはそう言うとくるりと背を向け高さ十五メートルの凱旋門に向かって走り出した。凱旋門の向こうには高さ三十メートルの白いピラミッドが見える。
行政府は凱旋門から入ってアゴラに出ると右側の柱廊の背後にたくさんの白い古代ギリシャ風の建物としてある。立法府や司法府に比べ行政府はその事務が膨大であるため建物の数も多い。また、ここで賄いきれない仕事は下部の高層ビルにいる役人が行う。
シロンは行政長官公邸の三人いる門番のうちひとりに言った。
「オクティスの護衛官のライオスはここにいますか?」
門番は言った。
「君は何者だ?」
「ぼくはアカデメイア学生のシロンという者です。ライオスは親友です。ライオスを呼んでください」
「勤務時間が終わったらではダメなのかね?」
シロンは言った。
「今すぐでなければ意味がないんです」
と、そこへ司法府からの使いが来た。
「今から裁判と刑の執行がある。行政長官にお出まし願いたい」
門番は、わかりましたと言うと公邸の中に入って行った。
しばらくすると、オクティスが護衛官に囲まれて歩いて出て来た。その中にワインレッドのベレー帽の制服を着たライオスもいた。シロンはライオスに声を掛けた。
「ライオス、大変だ。マリシカが密航した。逮捕されて、今から裁判にかけられ目潰しの刑に処される。オクティス、なんとかなりませんか?」
オクティスはひとこと言った。
「法は法だ。守らねばならない」
シロンは何も言えなくなった。ライオスも何も言わずシロンの前を通り過ぎた。シロンはオクティスたちがアゴラに向かって歩いて行くのをしばらく見送った。
シロンは立ち止まっている場合じゃないと、オクティスたちを走って追い抜き立法長官公邸に向かった。立法長官公邸は大きな凱旋門を入ってアゴラに出ると左手の柱廊の背後にある。だが、そこまで行く必要はなかった。すでにアゴラを囲む回廊の北側の立法長官席にシマクレスは座っていたからだ。後ろにはアイリスが立っている。アゴラの真ん中には両腕を縛られたマリシカが座っている。その周りには多くの市民がいる。シロンはアイリスとシマクレスに近づいた。
「アイリス、シマクレス長官。あの子を救ってあげられませんか?せめて目潰しは回避させて欲しい」
シロンが言うと、シマクレスは言った。
「愚者には密航の罪がどんなに重いかをわからせてあげなければならない。密航を企て、アルカディアに侵入した愚者がどんなに恐ろしい目に合うかを下界人にわからせてやるのだ」
シロンは言った。
「でも、マリシカは恋人に会いたくて、その思いが強すぎてこんなことをしてしまったんです。情状酌量の余地はありませんか?」
「ない」
シマクレスは答えた。
「甘い前例を作ることはできない。密航者はいかなる理由があれ目潰しの刑だ。資格のないのにこの聖なる島の景色を見たその目は潰さねばならない」
シロンは言った。
「アイリス、何とか言ってくれ。かわいい後輩が目潰しの刑に処されようとしてるんだぞ」
アイリスは答えた。
「マリシカは犯罪者になってしまった。もう後輩でも友達でもありません。わたしの友達に犯罪者は要りません」
シロンはアイリスの両肩を掴んで言った。
「おい、アイリス、おまえは・・・」
そこでシロンは護衛官に抱えられアイリスから引き離された。
「長官に無礼だぞ。君はただの学生だ。立法長官に懇願する立場にはない。ここでアルカディアの法を学ぶいい機会だと思え」
シロンは護衛官に引っ張られアゴラの真ん中にいるマリシカを囲む市民の輪に加えられた。
北側の柱廊にある壇上の演説台に司法長官が現れた。頭は禿げあがり白い髭を蓄えている。
検察官が罪状を読み上げた。
「この者、密航を企て、空中列車に忍び込んだ。そして、このアルカディアの駅に入ったところでその身を拘束されここに至る。裁判長、司法長官殿、判決はいかに?」
司法長官は重々しい声で言った。
「その者を目潰しにし、即、下界へ追放せよ」
司法府の人間がマリシカの周りに集まり刑の執行の準備を始めた。
シロンは驚いた。
「これが裁判か?理想郷アルカディアの裁判か?」
マリシカは寝台に横たえられ、両手両足を寝台に繋がれ身動きできなくなった。口にも猿轡を噛まされ声を出せなくなった。
執行官が司法長官のもとから歩いてマリシカに近づいた。手には針を持っている。
アゴラは静かになった。
執行官はマリシカの顔を見下ろす位置に立ち、まず、右目を針で突いた。マリシカは身を捩ろうとしたが捩ることすらできないくらいに縛られていた。次に執行官はマリシカの左目を突いた。右目の瞳も左目の瞳も白く混濁した。こうしてマリシカは光を失った。
シロンは地面に両膝を突いた。
「ああ、俺は無力だ。なにがアカデメイア学生だ。エリートだ。俺にはなんの力もない」
すると、マリシカの所に駆け寄った男がいる。ライオスだ。
「マリシカ、俺だ、ライオスだ」
マリシカは執行官により縄をほどかれ猿轡を外された。
もう目の見えないマリシカは微笑みをたたえた。
「ああ、ライオス先輩。会えた。よかった。でも、わたしにはもう、ライオス先輩の顔を見ることはできません。お願いがあります。わたしと共に下界へ降りて一緒に暮らしましょう」
ライオスは黙った。そして、言った。
「俺はアルカディア人だ。自由市民ではないけれど、この空中都市で、世界の中心にいたい。悪いけどマリシカの願いは叶えてやることはできない」
マリシカは泣いた。血の涙だった。
マリシカは追放された。
囲んでいた自由市民たちは口々に言った。
「やっぱり愚者は愚者ね」
「わたしたちは自由市民で良かったなぁ」
夕暮れ時、私服になったライオスは庭園の最南端、エンペドクレスの飛び込み台近くの野原で、ギリシャ遺跡の倒れた柱に腰掛け、マリシカからの手紙を泣きながら読んでいた。
ライオス先輩へ
わたしがライオス先輩を好きになったのは、あの校舎裏でカルスたちに絡まれていたときです。あなたはわたしを守るためにボロボロになって戦ってくれましたよね。わたしは男性から身を守られたのは生まれて初めてでした。それ以来、あなたのことが好きで、ホバーボード部のマネージャーであることは幸せでした。わたしはあなたと結婚することを夢見るようになりました。できればアルカディアで一緒に暮らしたい。でも、わたしは試験に落ちました。次の試験は四年後になってしまいます。これではわたしはライオス先輩に八年間会えないことになります。それに四年後の試験で合格する自信はわたしにはありません。なぜ、この世の中はこんなにも恋人の運命に残酷なのでしょうか。アルカディアに行くことは本当に幸せなのでしょうか。わたしは最近、空中都市よりも下界で暮らすほうが幸せであるような気がします。もちろん好きな人が近くにいればの話です。ライオス先輩、降りてきてください。下界に降りてきてください。わたしのもとへ降りてきてください。そして、わたしと結婚してください。それとも、やっぱり一流であるという快感のほうが素朴な幸せよりもお好きですか?わたしと幸せな家庭を築きましょう。愛しています。
マリシカ
ライオスは顔をくしゃくしゃにして号泣した。
「俺はなんのためにアルカディアにいるのだろう?オクティスの護衛官になるためだったのか?二十二歳で護衛官になるのはホバーボーダーで最速の出世だと言われている。だが、そのことにどんな価値があるのだろう。ちやほやされるのがそんなにいいか?」
泣いているライオスの前にいつのまにか中高年の小太りで頭の禿げた男性がひとり立っていた。ライオスはそれに気づいた。
「誰です?」
「ちょっと待ったおじさんです」
「ちょっと待ったおじさん?」
「そうです。あなたはエンペドクレスの飛び込み台の近くで手紙を読んで泣いている。わたしの勘ではあなたは自殺を考えている」
「考えていませんよ」
「だが、あなたは泣いている。話してみなさい。その事情を」
「なぜ、赤の他人であるあなたに?」
「わたしはちょっと待ったおじさんとして十年ほどここにいる。わたしは自殺志願者を何人も思いとどまらせてきた。あなたの気持ちを聞かせてもらえないか?」
ライオスは言った。
「俺は行政長官の護衛官をやっています」
「ほう、高い地位ですね」
「でも、女性ひとりを守ることができなかった。自分の無力に失望しました」
「人間は皆、無力です」
「俺はホバーボードで金メダルを獲り、アルカディアに上がった。そして、護衛官にまでなった。俺は本当にそんなものになりたくてアルカディアに来たのか。いや、違うと思います。ただ、一流と認められることに酔っていただけなんです。俺は今後、自分をどうしたらいいかわからないんです」
ちょっと待ったおじさんはしばらく黙ってから言った。
「あなたには志はありますか?生きる目標はありますか?」
「生きる目標ですか?そうだな、三十歳過ぎてもアルカディアで暮らしていくことでしょうか。いや、その思いも今は疑問です」
「たしかに、そんなつまらない目標では疑問も持つでしょう。志は自殺を防ぐ予防薬です。何かを成し遂げたい。そんな志を持ちなさい」
「志ですか?」
「志とは、例えば社会のどこかを良くしたいとかそういう思いを持つことです」
ライオスは考えた、このアルカディアの疑問点を。すると、それは思いのほか多いことに気づいた。
ライオスは立ち上がった。
「ちょっと待ったおじさん、ありがとうございました。まだ漠然とですが、志が見えてきたような気がします」
ちょっと待ったおじさんは笑顔で言った。
「そうです。若者はそうでなくちゃ」
ライオスはその場をあとにし、庭園から出て、パンテオンを降りて、下部にある自分の住居に戻った。
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