統合失調症になってから、なんのために生きるか
私は十六歳で統合失調症に罹りました。
当時は生きているだけで苦しく、死ねば楽になるのかと考えてしまいましたが、自殺は絶対にダメだと自分に言い聞かせて生きていました。
マンガ家になりたいという将来の夢がありましたので「まだ、夢を叶えていないじゃないか」と自分に言い聞かせて毎日をしのいでいました。
生きていても楽しいと感じることがなく、ただ夢にしがみついていました。生きる喜びはなく、ただ夢のために生きていました。
大学生になり、マンガを出版社に持ち込みました。どの出版社でも「絵が下手過ぎる、諦めたほうがいいよ」と言われました。私は客観的に自分の絵を見ました。「生き生きとした絵が描けない、これは精神を病んでいるせいだ」と思いました。とにかく病気を治そうと、私は精神科の初診を受けました。大学は休学しました。
ここから心のリハビリが始まりました。
私は一日中家に居ました。テレビを見たり、油絵を描いたりしていました。
マンガ家という夢を失った私は絶望の中でもがいて苦しんで絵を描きました。自分は一流の画家になる、などと妄想に囚われていました。絵が上手いなどという自信はありませんでしたが、この妄想だけが心を支えていました。とにかく、有名な芸術家になりたかったのです。
しかし、生きていて楽しいと感じることはありませんでした。頭に孫悟空の輪が嵌められていて、きつく締め付けられている感じでした。
この輪が外れたらどんなにいいか、私の心のリハビリはこの輪を少しずつ外していくことでした。輪が嵌ったままデイケアに通いました。輪が嵌ったまま人間関係を作りました。デイケアで人と話すことで少しずつ健康に近づこう、健康という出口に向かって私は日々の生活を送りました。
しかし、健康になるために生きている。この状態とはいったいどんなものでしょう?
健康な人ならば、夢を叶えるためとか、家族のためとか、生きる目標のようなものがあると思うのですが、健康になるために生きるというのは、スタートラインに立つために生きるというのと同じことです。
私はただでは起きないと、画家を目指しました。下手でも迫力のある画面を作れば現代は評価してくれる、そう考えました。
ある日、デイケアのソーシャルワーカーに訊ねました。
「病気であることは芸術家になるために有利に働きますか?」
「うん、働くね」
私はゴッホのようになりたいと思いました。その一方で健康になりたい、せめて精神が安定してふつうの社会生活を送れるようになりたいと思いました。
休学期間が終わりに近づくと、私はソーシャルワーカーに相談しました。
「大学を中退するか、復学するか迷っているんですけど」
「君はどう思うの?」
「大学を卒業したほうが将来有利でしょうか?」
「そりゃ、もちろん大学を卒業したほうが有利だよ」
「じゃあ、復学します」
こうして私は大学に復学し、四年生として一年間通学して卒業しました。
大学を卒業すると私は一年間デイケアに通いながら、また、マンガを描き始めました。一日一枚描いて、三百ページくらいの作品ができました。
私はそれをスーツケースに入れて出版社に持ち込みました。
「絵が下手過ぎる」と、どこの出版社でも言われました。
ある編集者が言いました。「マンガなんて鼻くそをほじりながら暇つぶしに読むものだよ。それに人生を賭ける覚悟がないとダメだよ」
私はマンガを芸術だと思っていたので、この言葉に怒りを覚えました。ただ、私のマンガは、その暇つぶしのレベルにも達していないという事実に絶望しました。私はもうマンガはやめようと決意して、小学生の頃から描いていたマンガのノートを近所の川へ橋の上から捨てました。
私はとにかく少しでも病状を回復しなければいけないと思い、働くことにしました。時給の安いパートのハードな肉体労働を修行のつもりで始めました。「ここでの労働は将来の財産になる」そう信じて毎日働きました。
一方でデイケアにも仕事のない日は通いました。私は小説を書いてデイケアメンバーに読んでもらうようになりました。マンガ家の夢が小説家に変わったのです。
私は毎年新人賞に応募し落選し続けました。諦めませんでした。
肉体労働は続けていました。ワーキングプアでしたが、実家にいるため生活はできました。ようするに経済的自立はできていませんでした。
二十代の終わりになると、そろそろ安定した仕事に就こうと思いパートを辞めて職探しをしました。トライアル雇用で就職しても長続きせず、職を転々としました。親に頼っていたとはいえ、自分の預金が底をついて来ると精神的に不安定になりました。主治医は、「障害年金をもらってみる?」と言うので私は「はい」と言いました。私は手続きをして年金をもらうようになり、障害者手帳を取得しました。こうして私は正真正銘の精神障害者になりました。
年金が入ると私の心は安定しました。それに二十代の肉体労働は私に「仕事はできる」という自信を与えてくれました。
私はハローワークで介護職の職場体験の案内を見て、体験してみることにしました。求人が多いし、長期で続けられそうだったからです。三日間の体験を終えて、私はホームヘルパー二級を取って確実に就職しようと決めました。その資格を取ると、私は障害者の合同就職面接会に参加し、いくつかの介護施設の職員と面接しました。
そして、ある特別養護老人ホームで働くことが決まりました。夜勤はやらず臨時職員という身分でした。
私は就職したら積極的に仕事を覚え、積極的に職員とコミュニケーションを取りました。そこには二十代の就労が生きていました。二十代では農業の手伝いもしましたので、百姓のコミュニケーション能力を身につけていました。就職した特養は田舎の老人ホームで、職員も利用者もみんな方言の強い百姓的なコミュニケーションを取っていたのは幸いでした。
私は特養で働いて現在九年目になります。その間、介護福祉士と社会福祉士の資格を取りました。その二つの資格より私にとって嬉しかったのは、一度だけ文学新人賞の一次選考を通過したことでした。私はまだ小説家の夢を諦めていません。夢は小説家、職業は福祉。現在、精神保健福祉士を目指して勉強しています。
私は初めて精神科を受診したとき、とにかく楽になりたいと思っていました。それから二十年余り経ちました。現在は、治ったとは言えませんが安定しています。
それに、現在の私は精神病は治らなくてもいいと思っています。
死ぬまでに志を遂げることができればいいと思っています。
ところで、現在、リカバリーすることが精神障害者の人生の目標かのような考え方が大勢であったり、あるいは脱施設化が唱えられています。
私は一応それはもっともだと思っています。
しかし、私は、精神障害者の人生の目的は退院して地域で暮らすとか、一般就労するとか、あるいはリカバリーするとか、幸せになるとかそういうことではないと思います。
画家になりたい人は不幸でもいい、入院したままでもいい、無職でもいい、作品が世間で評価されればそれでいい、それが本音であると思います。
一般就労とか地域で自立して暮らすとか、それは支援者の目標です。
私たち障害者は、というか人間は、病んでいてもいい、不幸でもいいから人生の宿願を叶えて生き切って死ねればそれでいいと思うのです。
私は現代の病である健康神話に終止符を打ちたいと思います。
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