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小説『ピンクの部屋』

これは僕が初めてアダルトビデオを借りたときの話だ。

僕はそのとき、静岡から出てきた大学生で、東京と横浜の間にある川崎のアパートで一人暮らしをしていた。

1999年か2000年のことだったと思う。

その頃、近くの電器店で一万円だったか二万円だったか忘れたが、一番安いフナイ製のテレビデオを買ったばかりだった。
テレビデオとは、テレビの画面の下にVHSのビデオテープを入れる口があるやつで、一人暮らしの男子学生にとってはうってつけの商品だった。

僕は、雨上がりの休日、近所のレンタルショップで生まれて初めてアダルトビデオを借りた。

当時は現在のようにパソコンも普及してなく、スマートフォンもなかったから、エロい画像を見るならば本屋でエロ本を買い、エロい動画を見たかったらレンタルショップでVHSのアダルトビデオを借りてくるしかなかった。

大阪の僕の友人など、僕が大学入学直後に彼の一人暮らしの部屋を訪れたとき、ビデオデッキを二台置いていた。
僕は内心、「こいつ、レンタルしてきたAVをダビングしてやがるな」とすぐにわかったが言わなかった。
つまり、友人はアダルトビデオを買うカネがないため、レンタルしてきた物を二台目のデッキに入れたカラのテープに写して所持する、そういうことをしていた。
僕もそういうことをしたいという欲望はあったのですぐにわかった。
「やってることがすぐにバレることをよく堂々とやれるよな」とも思ったがやはり言わなかった。

僕は大学に入学し一人暮らしを始めたのは1998年のことで、テレビデオを買うまで、一年か二年のブランクがあった。

僕は真面目な男子学生だった。

父親が教師で、家では性のことはタブーだった。
エロ本など持っていることがバレたら、どれだけ叱られるか、想像に絶するところがあり、中学高校時代はエロ本さえ買えなかった(中学生高校生がエロ本を買うことは法律で禁じられていた)。

しかし、大学生になり一人暮らしが始まると、ついに解禁だ。

それでも僕は真面目でテレビを部屋に置かなかった。
テレビのない生活がしたかったのだ。

僕の部屋はアパートの一階だったが、高台にあったので見晴らしが良かった。
六畳間とキッチン風呂トイレのワンルームのアパートだった。
部屋には窓がひとつあり、外には洗濯物を干すための物干し竿をかけるフックがあった。
僕は窓際に書き物机を置いていた。
その隣には本棚を置いた。
部屋の中央にはこたつ机がひとつある。
そこで食事をし、書き物机で文学や哲学の本を読んだ。

書き物机から対角線上の隅に二段の引き出しがあるローチェストを置いた。その中に季節の服が入っていて残りの季節外の服は窓側にある押し入れの衣装ケースに入っていた。

ローチェストの上には固定電話があり、当時、携帯電話が普及し始めていたとはいえ、まだ僕は携帯電話を必要とは感じなかったから固定電話でことが足りた。
その固定電話はローチェストの上でも左側の壁寄りにあった。
そして、同じローチェストの右側にテレビデオが据えられた。
窓側の半分が押し入れで、その左側の壁しかない部分にローチェストが置かれたから、ほぼ部屋の中央でテレビデオを見ることになった。

僕は映画が好きでテレビデオでレンタルした映画のビデオを見たかった、建前上は。
実際、レンタルショップで何本も映画を借りて観た。
夜中にヘッドフォンをつけてひとりで観る映画は刺激的だった。
溝口健二、五社英雄、伊丹十三、北野武・・・。
僕の知性は激しく刺激された。

そして、ある雨上がりの午後、僕はついにアダルトビデオを借りた。
レンタルショップのそのコーナーに入るにはピンクの暖簾を潜らねばならなかった。

僕は初めて暖簾を潜った。

おお!ある、ある、す、すげえ。

僕は心臓がバクバクした。
どれにしよう。
僕は舐めるようにそのピンク色の棚を物色した。

僕は初めてだったので、とりあえず、ランキングの棚で上位にある方の好みの顔の女優のビデオを一本手に取った。

僕は心臓をバクバクさせながら、レジにそれを持って行った。

店員は僕と同じくらいの若さのアルバイトと思われる女性だった。
僕は「ああ、この人は僕のことをどう見ているのだろう?」などと疑心暗鬼になった。
しかし、女性は軽蔑の眼すらせず事務的に会計を終わらせ、僕にビデオの入った袋を手渡すと、にこやかに「ありがとうございましたー」と紋切り型の挨拶をした。

僕は店の外に出ると、雨上がりの生ぬるい空気の中をテレビデオのあるアパートの部屋へまるで巣穴に戻るトカゲのように急いで歩いた。

僕はアパートに着くと、ドアの鍵を開けて中に入った。
閉め切った部屋は、これからここで何が行われるかを予想もしないように六月の湿気を素直に受け入れ、幾分カビ臭さを感じさせた。

部屋に入るとフローリングの床で右側にキッチンがある。
流しの横には昼に洗った食器の入ったプラスチック製のケースがあり、その奥には小さな食器棚がある。
その奥にはひとり用の冷蔵庫があり、上に電子レンジが載っている。僕は毎朝このレンジで食パンを二枚焼いてマーガリンを塗って食べた。それに目玉焼きとコーヒーというのが僕の朝食だった。
反対に左側には手前に風呂がある。この風呂は一人暮らしを始めた当初は浴槽に湯を張って入っていたが、水道代がもったいないと思ってシャワー浴専門になった。その風呂から出たところに、週末にしか使わない洗濯機を置くスペースがあり、その奥に窓のないトイレがある。
このとき僕の用があるのはこれらのキッチンやら風呂やらトイレやらの生活のための設備ではなかった。

奥の和室の六畳間のローチェストの上にあるテレビデオだった。

すぐに僕は部屋のカーテンを閉めた。
部屋は薄暗くなった。

座椅子をテレビデオの前に持って行った。
その横にティッシュの箱とゴミ箱を用意した。
そして、キッチンと六畳間の和室の境のガラス戸を閉めた。
あとはテレビデオの電源を入れ、テープを入れれば・・・。

僕は電源を入れ、VHSのビデオテープを挿入した。

始まった。

お、おお、・・・す、すごい・・・。

うは・・・こ、これは。

お、いい。

僕はベルトを緩めズボンを下げ、パンツも下げた。
もちろん、それは元気いっぱい、ビンビンだった。

もう、テレビデオの中は、異次元だった。

僕は早くも一発目の臨戦態勢に入り、ティッシュを手に取った。

そのときだった。
テレビデオと同じローチェストの上にある固定電話が鳴ったのは。

僕はビデオを一時停止した。
その画面がまた凄かった。
しかし、僕は我慢して我がひとりの部屋の外部から突然音だけで闖入してきたそいつの受話器を取ろうと、ティッシュを持った右手で股間を押さえ、テレビデオの前から左手を伸ばした。
左肘をローチェストの上に置いてようやく受話器を取ることができた。

おばちゃんからだった。

僕には親戚のおばちゃんというのは何人かいるが、単に「おばちゃん」と言うときは、母の姉を意味していた。

「もしもし、イサム、あのね、この前ね、あんたがチケットを取ってくれた巨人対横浜の試合ね、今日中止みたいなのぉ。せっかく静岡から横浜まで来たのにねぇ」

僕はおばちゃんと下半身裸で話している自分が変態みたいな気がした。
いや、もう、犯罪者だった。

「もしもし、それでねぇ、中華街で食事しようと思うんだけど、あんたもどう?せっかく来たんだし、贅沢しようと思ってねぇ。おじちゃんと吉人とね、四人でね」
吉人というのはおばちゃんの末っ子の中学生だ。つまり僕の従弟だ。
「どう?来る?もちろん、奢りよ」
「うん、行くよ。イク、イク、イッちゃう!」
「じゃあ、関内の駅で待ってるねぇ」

電話は切れた。

僕はもう「横浜」にイッてしまっていた。

テレビデオの明かりがカーテンを閉めた暗い部屋をピンク色に照らすいやらしい雰囲気と、今出したばかりの僕のアレの匂いのために、僕はまるで犯行現場にひとりいるような気がした。

僕は部屋を片付けて、仕度をし、アパートを出た。

電車に乗って、横浜に向かった。

僕は電車のドア付近に立って、そこに立つ痴漢みたいに自分を意識した。
反対のドア付近には若いカップルが手を繋いで立っている。
僕はそのふたりがアレをするところを想像した。
なぜ、堂々と電車の中で手を繋げるのか、不思議だった。
「私たちはアレをする間柄です。そうです、私たちは夕べもやったし、今夜もやります」
僕には理解不能だった。

関内の駅に着くと、駅は広く、どこに行けばおばちゃんたちに会えるのかわからなかった。
僕は駅前に立ち、道行く人たちをジロジロと見ていた。
まるで変質者がこれから犯罪をする獲物を物色しているみたいだった。
すると、後ろから女性の声がした。

おばちゃんだった。

僕は犯罪をしている場面を見つけられたように思った。

「凄いのよ。私たち、ランドマークタワーの展望台に昇っていたの。そこからね、望遠鏡で横浜球場を見るとね、バックスクリーンに、今日の試合は中止ですってあったの。面白いでしょう?」
「へ~、そうなの」
僕の網膜には先ほど見ていたアダルトビデオの女の映像が映っていて、現実の関内の駅周辺の景色にその女が裸で喘いでいるように見えた。
とてもおばちゃんを見る気にはなれなかった。

横浜球場の裏に行くと人だかりがあった。
フェンスの向こう側の球場から巨人の選手が車に乗って出ていく所だった。おばちゃんは興奮して、少女のようにはしゃいでいた。
吉人はそれをミーハーだとか冷静にツッコんでいた。
おじちゃんはタバコを美味そうに吸っていた。

そのあとは中華街を歩いて、比較的大きなレストランに入った。
おじちゃんは瓶ビールを注文した。
僕は何を頼んだのか覚えていない。
小籠包を食べたことは朧に覚えている。
もしかしたら、チャイナドレスの女性店員がいたかもしれないが、記憶にない。
僕はいつ逮捕されてもおかしくないほど、罪の意識に苛まれていた。
食事を終え、店を出ると、日が暮れていた。

僕は関内でおばちゃんたちと別れひとり列車に乗った。
夜景を見ながら僕は一人暮らしのあの部屋に向かった。
車内には様々な人々が乗っている。
会社帰りで外国語の勉強をする中年男性。
部活帰りで友達数人と談笑する高校生男子。
プリクラを見せ合う中学生女子。
喪服を着た老夫婦。
幼い子供を三人連れた若いお母さん。
浮ついた話で盛り上がるガングロのギャル。
ウォークマンを聴きながら外を見る大学生。

そんな人々を見て僕は思った。

こいつら、みーんな、セックスから生まれてきたんだ。
あのいやらしい行為から生まれてきたんだ。
あれ?オナニーから生まれた人はひとりもいないな。

アパートの部屋にはまだアダルトビデオとテレビデオが待っていると思うと、いよいよ僕は誰かを裏切っているような気がした。

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