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無知は無恥。小説家に必要な知識

私は知っていることと知らないことがある。
大学は文学部哲学科を出ているのだが、そうは言っても、哲学について説明を求められてもほとんど答えられるような気がしない。文学部だから英語もできてよさそうなものだが、私は英語ができず卒業後もこれは恥だと思い、ずっとラジオ英会話やスピードラーニングなどで食らいついていたが、結局身につかず、三十代になってようやく諦めた次第である。
まあ、英語ができないのは恥だと言えば、日本人のほとんどが恥になってしまうが、もちろんそんなことはない。ただ、私の場合、文学部哲学科を出ているのにという枕詞が付く。哲学も特に現代哲学について質問されてもほぼ答えられない。ハンナ・アーレント?読んでいません。ドゥルーズ、読んだけどわかりませんでした。ポストモダン、わかりません。脱構築、わかりません。サルトル、「実存は本質に先立つ」の意味を高校時代から考えていて、それでもサルトルを読もうとはしなくて、実存と本質は同じ意味くらいに思っていたのが、二十代後半でアリストテレスの『形而上学』を読み返したら「本質」という言葉の西洋的意味が理解でき、ようやく「実存は本質に先立つ」の意味がわかった気になったが、サルトルの哲学書は結局読まなかった。いや、ほんと、なにも知らないんすよ。
そんな無知な私は小説家になりたいんだが、小説家で有名になると対談とかがある。あれ、自信がない。だって、例えばドストエフスキーの話になると当然お互いに彼の作品を読んだこと前提で話すわけだから、『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』しか読んでいない私にはほとんど語ることができなくなってしまう。まあ、現代の作家は昔みたいに知識人ばかりではないから、その辺のモラルはあると思うが、「え?これ読んでないの?無知だな、恥ずかしい奴め」という空気はないと信じたい。
そういえば、私はよく三島由紀夫を語ったりするのだが、彼の小説は、『潮騒』『金閣寺』『豊穣の海』くらいしか読んだことがなく、そのくせ父の書棚にあった、小説以外の彼の本、『不道徳教育講座』とか『わが思春期』とかそういった類いの本はよく読んでいるので三島の場合、小説を語ることはできないが彼の人柄などを語ることはできそうな気がする。三島は三島事件などというのを起こして腹を斬って死んだのであるが、あれを『金閣寺』を参考にしつつ、彼のエッセイから彼のしたかったことを言えば、エロいことをたくさんすれば死なずに満足できたんじゃないかなというのが私の感想だ。いや、三島を語ると話が逸れる。
無知の話である。そう三島の時代はまだ小説家が知識人だった。小説家は英語ができて当たり前だった。小説家は東大を出ているのが当たり前だった。現代はそうではない。東大を出ていれば小説家になれるかというとそうでもない。むしろ、知識人より独特な個性を持った人が小説家になれるのだと思う。小説家は小説の外部であまり語らなくてもよい時代になっているのかもしれない。むしろ評論家のほうが頭がいい時代だ。そんな評論家が小説を書くと、頭がいい人の小説と見られ、たまに文学賞を受賞したりするが、やっぱりそれは小説の力ではなく、その外での言説がその人の小説の評価に影響を与えてしまっているのである。
平野啓一郎の「分人主義」を私はよく批判したり参考にしたりするが、これも彼の小説を読むときに、分人主義という思想を参考に小説を読まなければいけないみたいになってしまうので、小説自体に力があるかどうか疑ってしまう。小説家は小説を書けばよく、外部であまりベラベラと思想を述べるべきではないのかもしれない。平野氏はまだ小説家=知識人をやっている。
芥川賞=小説家への登竜門、みたいになっているところもあり、一度芥川賞を受賞してしまうと、「先生」になってしまうところがある。芥川賞は知識人に与えられる賞ではなく、今後の文壇を支えてくれる人材を発掘するためにあると思うが、芥川賞受賞作が最高傑作で終わってしまう小説家も多い。石原慎太郎も死ぬまで芥川賞をカードに政治の場で言論していた。それではいかんと思うのである。
小説家は知識がなければならないが、それは小説外で語るための知識ではなく、小説を書くために必要な知識である。語るための知識を得るために本を読むべきでなく、書くための知識を得るために本を読んだり旅行したりしなければならないと思う。
無知というのは恥ではなく、それを恥だと思うことが恥なのだと私は考える。

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