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鳳凰三山薬師岳にて北岳と対座する


北岳、鳳凰三山薬師岳より

今、私は鳳凰三山薬師岳山頂にいる。
その樹木のない石が乱立する白い頂の西端にある小さな石に腰掛け、メロンパンを食べコーヒーを飲みながら、西側に聳える日本第二の高峰北岳を見ている。午前十一時台、他に人はいない。

薬師岳山頂(午前七時台)

私だけがそこにいる。強いて言えば、正面に北岳がいる。
「いる」という表現はおかしい。
北岳は悠然とその体躯を私の前に晒しているが、「いる」と言うより「ある」と言ったほうが正しい。
パンを囓る。
今朝淹れたばかりの温かいコーヒーの入った水筒を傾ける。その温かみが喉を通って行くとき、北岳は何も言わない。
私も何も言わない。
私はパンを食べ終え、コーヒーを飲み尽くしても、北岳を見つめることをやめない。
他に人はいない。
私はひとりでこの鳳凰三山に登った。南御室小屋という小屋の前に広がるテント場で一夜を明かし、三山の薬師岳、観音岳、地蔵岳ヘと縦走し、また、観音岳、薬師岳と折り返してきた。また今夜は南御室小屋前に残してきたテントで眠る予定だ。まだ十一時台。十二分に時間はある。だから私は北岳を眺めようと決めた。いつか、赤石岳で何時間も富士山を眺めたときのように。
あのときは、晴天だったが雲は多かった。私は赤石岳避難小屋で買ったビールと家から持参したつまみを持ち、すぐ近くにある頂の三角点横の石に腰掛け、雲に隠れて見えない富士山を見ていた。しばらくして雲が晴れ富士山が見えたとき、私はこう思った。
「今、赤石岳山頂で富士山を見ているのは世界中で俺ひとりだけだ」
これは独占欲だった。

富士山、赤石岳より(2015年夏)

私は大金で買った美術品を眺める成金富豪のように、ビールを啜りながら、じっくりと富士山を堪能した。
富士は無言だった。
おそらく、他の場所から富士山を眺めている人は多くいるに違いない。しかし、ここ、赤石岳で眺めているのは私以外いなかった。
そのときと同じような贅沢な時間を、ここ、鳳凰三山薬師岳山頂で、西にある北岳を相手に私は過ごしている。
飲み物はあのときのビールではなく、コーヒーだが、それを飲み終わってでも、見ることに飽きない。

薬師岳山頂から観音岳方面


ここ薬師岳山頂に来たのは、これで三度目だ。一度目は高校生の山岳部で春の雪山だった。晴天に恵まれ、銀世界の薬師岳山頂で石に寝そべり日光浴をしていたのを覚えている。二度目は、十年前、私が三十四歳で登山を再開した最初の山がここだった。高校時代の思い出があったし、初心者向けだからだ。あのときは薬師小屋に泊まった。薬師小屋から薬師岳山頂は今回測ったら、七分で登れることがわかった。だからあのとき、北岳の向こうに沈み行く太陽と、東の空に昇り来る太陽のふたつの太陽を拝むことができた。その夕日を見ていたときのことだが、北の方を見て、腕を組み片手を顎に当てて、「いいわ~、甲斐駒~」と甲斐駒ヶ岳に惚れ惚れしているおっさんがいた。訊くと山梨県の出身らしい。そのとき以来、私はなにかに惚れ惚れしたとき、「いいわ~、甲斐駒~」と言ってニヤニヤするのがクセになっている。しかし、現在、どう見ても、薬師岳山頂から甲斐駒は見えない。観音岳がすっぽりとその姿を隠している。薬師岳はピークが東と西でふたつあり今私がいるのは西側のピークだ。東側のピークから甲斐駒を拝めるかと行こうとしたら、立ち入り禁止を意味すると思われるロープが張られてあり、登れなかった。

「いいわ~、甲斐駒~」
甲斐駒ヶ岳、地蔵岳より

だから、薬師岳から見える姿が特に美しいと私が思う三つの山、富士山、北岳、甲斐駒ヶ岳のうち今見えるのは富士山と北岳だけだ。だから、すでに一度対座してある富士山ではなく、今回は北岳を対座の相手に選んだ。
人は他に誰もいない。
風の音と時折ある鳥の鳴き声しかしない。それから私が立てる足下の砂の音だ。
北岳は黙っている。
私の頭の中も風の音と鳥の声しかしない。雑念はない。まるで人生の時間から飛び出してここにいるようだ。ここは人生から隔絶された時間の無い世界なのか?
諸行無常を是とする私にとって北岳もいつかは崩れ去る存在なのだが、こうやって対座していると、この山は永遠の中にいるのではないかと思われてくる。
たしかに人間の一生など北岳から見たら一瞬に過ぎないだろう。それでも北岳だって、いつかは崩れる存在のはずだ。いや、もう崩れ始めているのか?しかし、こうして座している私にはその存在は永遠を意味した。
私はひとりで登山をする人間だ。べつにひとりが好きでそうしているわけではない。遊び友達というものがいなかったからだ。もし、山に登る友達ができたら、あるいは彼女ができたら、結婚して子供ができたら、誰かと共に登りたいという夢はある。
しかし、この対座の時間。偉大な山と私の一対一の時間は、誰かと共に来ては味わえない。私は特にひとりが好きというわけではない。しかし、この偉大な山との対話、無言の対話の贅沢を知った今、単独登山は今後も続けようと思っている。
よく、「なぜ、山に登るか?」という問いがある。これに有名人の言葉「そこに山があるから」と答えるのは簡単で愚鈍な気がする。この質問にはふたつの主語があると思う。ひとつは、「なぜ危険を冒してまで山に登るのか?そこに意味があるのか?」と問う登山に関心の無い人が主語である場合、そして、登山をする者が自問する場合のふたつがあると思う。その答えは同じものになると思うが、それを登山者が、「そこに山があるから」と他人の言葉で答えてしまうのはせっかく登っているのに惜しい気がする。私はその問いの答えはまだ出ていない。今回の文章のように対座するために登るというのもたしかにあるが、それだけではない。今回は二度目のソロテント泊だ。テント泊が今回の目的であり北岳と対座することはおまけだった。しかし、この対座が今回の登山で最も贅沢な時間で、最も深い哲学か文学かわからないが、貴重な時間を過ごせた。
山と対座することは哲学や文学のように本を読むことではない。山を読むわけではない。そこに言葉はない。
ただ、見るのである。
鑑賞と言ってしまうには惜しい崇高な気持ちがある。
そうかと言って、山の背後に神を感じるわけでもない。背後にあるものではなく山その物を見るのだ。
仏教の人は、そこに座禅のようなものを想起するかもしれない。しかし、私はこの対座を座禅の一種としてしまうには惜しい気がする。べつに悟りを開くために山を見ているわけではない。宗教ではなくあきらかに趣味なのだ。盆栽を眺める老人に似ているだろうか?しかし、盆栽と並べるのもまた惜しい。そういえば、鳳凰三山の登山道は樹林が美しく、標高が高くなるほど木々がミニチュア化していき、まるで自然の作った箱庭のように見えるのだ。三山はその樹林からわずかに顔を出した岩の山だ。先に述べた薬師小屋は樹林の中にあり、七分歩くと、樹木のない白い岩の薬師岳山頂に出る。樹林の中を歩くのも趣味、山頂から景色を眺めるのも趣味、小屋で美味しい食事をするのも趣味、テントで寝るのも趣味だ。

自然の作った箱庭
テント場の朝


地蔵岳

趣味というと、登山はそれ自体にはそれほどおカネがかからない。アクセスのほうがおカネがかかるかもしれない。今回、出会った初老の男性は九州の宮崎からマイカーで来たそうだ。先に北岳と間ノ岳を登り、続けてこの鳳凰三山に登り、次は天城山を登って帰ろうという予定らしい。百名山に挑戦しているそうだ。私は日本アルプスにアクセスの良い所に住んでいてラッキーだったと思う。そういえば、私は一ヶ月前、剣岳に登ったが、あれは命懸けの登山だった。命を懸けての趣味も贅沢だが、こうして近くの偉大な山を眺めているのも、また贅沢だ。どんなに大富豪でも、自分で歩かなければ山には登れない。山は我々の前にほぼ平等にその頂への道を差し出している。
私は北岳を見ている。
かつて、あそこに登ったとき、自分より高い場所は富士山だけだった。北岳は周りを見下ろす山だ。それもまたいいが、しかし、こうして、それより低い山から、じっと見つめるのもまたいい。登頂したいというのは支配欲なのかわからないが、見つめていたいというのはどんな欲なのか、私にはわからない。
傍観ではない。
登るのでもない。
ただ、対座するのだ。
いや、私は対座するために薬師岳まで登ったのかもしれない。登った満足感もそこにはある。山から山を見るというのが、私が見つけた「対座」という登山のひとつの趣味かもしれない。


朝の北岳

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