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「吹っ切れる」ということ

私は四十二歳で、恥ずかしながら彼女いない歴四十二年。
正直、彼女は欲しい。
中学生の頃からずっと思っていた。
でも、中学生のときに好きだった女の子に告白する勇気がなく、結局、中学を卒業し私の初恋は終わった。
中学生の頃、恋愛だけではなくいろんなことにもやもやしていた。
表題の言葉、「吹っ切れる」ことを強く意識していた。
小学校の頃は周囲の中でも存在感のあるほうだった私だが、中学時代、真面目のふりをして目立たないように心がけていたら、オーラのない雑魚みたいな奴になってしまっていた。実際、絶対彼女なんかいるわけがない地味な奴らと、楽しく雑魚ライフを送っていた。彼らと過ごした日々が楽しかったことは間違いない。今でもその日々は大切な思い出だ。でもその楽しさにも常に疑問があった。
「一流ではない」
私は一流になりたかった。その意味は表世間で堂々と自分らしく生きることだったと思う。例えば、好きな女の子とつきあったり、男同士で殴り合いのけんかをしたり。しかし、私はひきこもって「一流のマンガ家になる」などという野望を持った。しかし、今気づいたが、それは二流の夢だ。人として一流でない奴はどこに行っても一流にはなれない。
だから、中学生の頃、好きな子に告白できるかどうかが分水嶺だった。「君が好きだ」そう言えるだけで、自分の殻を破り、吹っ切れて一流の人間になれたはずだった。あれはチャンスだった。吹っ切れるチャンス。恋愛以外のことにも吹っ切れるチャンスだった。周りから冷やかされるのを極度に恐れていた。結局告白できず進学した私は、マンガ家になるという夢を見つつ、人生からはひきこもって生きるようになった。これは太宰治の「ただ一さいは過ぎて行きます」に通じる。世間を眺める人間になった。
自分の恋は棚に上げて、芸能人の恋愛などの記事に勝手に頭の中で批判して理想の恋だのなんだのと理屈をこねていた。
三島由紀夫は『金閣寺』の主人公に金閣を焼かせ、自分は市ヶ谷駐屯地で非合法の事件を起こして割腹自殺したが、私の場合、「君が好きだ」と言うことが、突破口であり、合法でも非合法でもなく、人間として自由になることだった。
ただ、ここで自分を棚に上げるが、吹っ切れず、二流のままズルズルとつまらない結婚をしてしまうことは最悪だと思う。だから、まだ、私にはチャンスが残されていると思う。(くどいようだが、私がここで言う一流二流とは自分の人生の主人公になれているかどうかを言う)

ところで「吹っ切れる」という言葉を思い出したのは、最近同世代の人がブログで書いていたからだ。懐かしい言葉だが核心をついていた。

長々と、みなさんにはどうでもいい私の恋愛の失敗談を読んでいただいたが、私は、高校二年生で統合失調症という精神病に罹っていて、だからというわけではないが、二十五年以上人生の外にいたような気がする。と言っても、一般の人の人生からすれば外にいたが、外にも外なりの人生があり、だいぶ回復してきて、一般の人が考える人生の中に入れるんじゃないか、そろそろ治るんじゃないか、という予感のあったところに、ある人のブログにあった、「吹っ切れる」という言葉を読み、過去にその言葉を強く意識していたという記憶が蘇って来た。
「そうだよな。吹っ切れているか、吹っ切れていないかだよな」
いわゆる健常者でも、吹っ切れているかもやもやしているか、の二つの状態にあると思う。ようは明るく社交的か、暗く引きこもっているかのふたつだ。心が開いているか閉じているか。吹っ切れている人はそれだけで魅力的なのだ(引きこもっている人の魅力というのもあるが今回は触れない)。

ただ気をつけなければいけないのは、吹っ切れたつもりで急に社交的になることはもしかしたら、大きな失敗をするかもしれない可能性がある。行為には善悪がある。三島由紀夫みたいに罪を犯すことも吹っ切れた(つもりになった)人が陥る落とし穴だ。
それにこの吹っ切れるかどうかというのは主観主義で、吹っ切れたことでその人が価値の高いことをするかどうかは度外視している。ジョン・スチュアート・ミルの言葉に、「満足した豚であるより、不満足な人間である方がよい。満足した愚か者であるより不満足なソクラテスである方がよい」とある。しかし、不満足なソクラテスはしょせん不満足な人生を送っている吹っ切れない人に過ぎない。吹っ切れて踊る豚はどれだけ幸福だろうか?もうそれは豚ではないだろう。ミルが満足した愚か者と言った人たちから見て人間ミルはどう映るのだろうか?吹っ切れて輝かしい毎日を生きている人から見て、書斎で読書と執筆をする哲学者はどう見えるのだろうか。哲学など趣味のひとつに過ぎないのではないだろうか?(小学生の頃、自宅でファミコンばかりをしている友だちを、外でよく遊んだ私はどんな気持ちで見ていただろうか?)

私が大学生の頃、同世代の男女に、髪を染めたり、ピアスを開けたりというのが流行った。遊びでやる人も多かったと思うが、覚悟を持って吹っ切れるために、髪を銀に染めたり、ピアスを開けたりした人もいただろう。そういうのをイメチェン(イメージチェンジの略)と言った。イメチェンは自己イメージのチェンジであり、そうする人は変わりたかったのだろう。私はそういう人を上から見ていた(もしかしたら下から見ていたかもしれない)。自分のことは棚に上げて、眺めていた。
大学時代、吹っ切れて普通の庶民になるのはおもしろくないと私は思っていた。だから、学問をした。特に仏教の「解脱」に関心があった。しかし、学問をするにつれ、最近では解脱とは吹っ切れることだと思うようになった。吹っ切れて市井で生きる、活き活きした人たちのほうが、書物に囲まれた学者や宗教家より良い生き方をしているのではないかと思うようになった。もちろん、書物を全否定しない。なぜなら吹っ切れたときの世界観、価値観がその人の行動を決めてしまうからだ。読書はその人の人生を補完するものだ。しかし読書だけではいけない。実際に生きることをやめてはいけない。目指すべきは満足したソクラテスだ。人生というドラマの主人公になるべきだ。

私は生きてみたい。

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