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「書かない小説家」にはなりたくない

世の中には小説家になりたい人が山ほどいるが、ときどき見かけるのが、書いていないのに「小説家」を名乗る者がいる。
いや、小説を書きたいから小説を志しているのではなく、小説家という肩書きと文化人的雰囲気を纏うことを好む人がいる。
詩を書く者にも、そういうタイプはいる。
マンガ家志望ならば、ベレー帽を被って、締め切りに追われる生活に憧れる者がそうかもしれない。
書かない小説家は書きたい物があるのではなく、ただ、小説家の風貌に憧れているだけだ。そういう人は書くとしたら私小説を書く場合が多いと思う。そして、作務衣なんか着たりして小説家ごっこをする。
芸術を志すならば、その肩書きに憧れるのではなく、本当に芸術作品を作って世の中を驚かせてやろうという気構えがないといけないと思う。
ベレー帽を被りたかったら被ればよい。
作務衣を着たかったら着ればよい。
でもそういうのは芸術家の本質ではない。
芸術は自分の姿を忘れて没頭したときに出来上がる物だと私は考えている。
作品は作家の装飾品ではない。
むしろ作品が主役で作家は背後に引っ込まなければならない。
世の中の光に当たるのはあくまで作品である。
外見上の小説家らしさなどどうでもいいのだ。
だいたい小説家らしさなど、誰かの真似に過ぎないだろう。
見た目の小説家らしさではなく、作品内容が自分らしいかが重要だと思う。
作品世界に入り込んでいるのが気持ちよいことが第一で、書いている姿などどうでもいいのだ。
そういうのはどんな職業でも言えると思う。
医者の白衣に憧れる人は医者を目指さないほうがいい。
医者になりたい人は、人の病気や怪我を治すという志があればいい。
小説家も同じで、読者を魅了する小説を書きたいという思いがあればそれでいい。
どんな小説家になりたいか、と言われてすぐに、ベレー帽を被っている自分の姿などを思い描くような人は小説家を諦めるべきだと思う。
芸術家は作品の前では無にならなければならないと思う。

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