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小説はがんばって書く物ではない

先ほど知人に会って、その人の小説の感想を伝えたが、別れ際に「じゃあ、がんばって」と言ってしまった。
いや、言ってしまったと言うのは、私は小説はがんばって書く物ではないと思うからだ。
楽しんで書く物だ。
いや、ニコニコしながら書くというのでもない。
暗い話でさえ、それに没頭している時間はなんとも言えない良い時間なのだ。
これは私の実感で、私は去年の一月から「小説家になろう」というサイトに連載している小説があるのだが、友人がそれを読んで「がんばっているね」とラインをくれた。そのとき、違和感を覚えた。「別に俺、がんばってないぞ」と。
小説を書いているとき、がんばっているという感覚はない。没頭して結末まで、あの高みまで登りたい、という欲求はあるが、がんばっているという感覚ではない。
がんばると言うと、肩肘張って力がこもっているような気がする。それでは小説は書けないと思う。ただストーリーの流れに身を任せれば自然と言葉は流れ出てくるものだ。
私が「小説家になろう」に連載しているのは即興小説で書きながらストーリーを考えていくという実験なのだが、もう一年以上続いている。もうやめたいと思うが、途中でやめるのは作品に対して失礼だと思うので続ける。強いて言えば、この継続して書くということが、がんばるということなのかもしれない。やめたいと思っていても、書いているときは楽しんでいるのである。ただ、気分が乗らないときに書くと、がんばってしまい、先を急ぎすぎて内容が面白くなくなる。つまり、自分を乗せることをがんばるのだと思う。乗ってしまえばがんばる必要はない。
ドストエフスキーは、「小説は構想を練っているときは楽しいが、書いているときは楽しくない」というようなことを言っていた気がする。私もその感覚はわかる。
自分は結末がわかっているのに、そこに至るまでの過程を書かねばならない。もう全体のビジョンができているのに、まだ実際に小説にはなっていない。あとは表現するだけというのは確かにしんどい。
しかし、私は即興小説を書くことで、書きながらストーリーを追いかける楽しさを知った。結末は見えていても、どのような過程を通るかは不鮮明であり、以外と即興でやったほうが面白いものが書けたりするかもしれない。
三島由紀夫は、結末を含めた全体を構想してから書き始めるらしいが、そういう書き方は、読者としては二度目の読みに面白さが現れると思う。別の言い方をすれば一度目はつまらない場合があるということだ。
宮崎駿は作りながらストーリーを考えるらしい。私もこれには驚いていて、まだ結末というか、絵コンテが完成していないのに映像を作り始めるらしい。描き手たちから、「監督、絵コンテはまだですか?」などと言われるらしいことは驚きだ。それで良い作品ができる場合もあるが、彼は失敗作と思われる物も作っている。
私は完全に考えてから書くのと書きながら考えるのとの中庸を取りたい。
着地点と、いくつかの通過点を決めてから跳躍したい。空中ではアドリブで通過点を結んでいくようにすれば、即興性と統一感のある作品ができるのではないかと思う。
長くなったのでもうやめようと思うが、小説、物語はどう書くかを考えることもまた面白いものだと思う。

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