哲学書を読まないという哲学
私はここ五年ほど哲学書を読んでいない。
大学は哲学科だったので、哲学書は卒業後もよく読んでいた。
その論理でグイグイ真実に迫る迫力は読んでいて感動する物ばかりだった。
しかし、私は高校時代から統合失調症という精神の難病を患っていて、哲学はその内面を整理するのに非常に役に立った。
しかし、逆効果もあった。なんでも論理的に考える癖がついてしまったことだ。
人生の多くは論理的に説明がつかないことが多い。
だから哲学書を読んでそういう考え方にどっぷり浸かっていると生きにくくて仕方なかった。精神衛生上も良くなかった。
しかし、哲学書を読むのをやめるというのは勇気が要った。
前述のように癖になっていたし、依存もしていた。
俺は哲学をしているから偉いんだぞ、みたいなところがあった。
小説家を目指していた私は哲学書を読んでいるとどうしても小説が哲学的になってしまって堅いイメージになってしまった。
そして、良く考えてみたところ、私が書きたい小説は哲学的な純文学ではなかった。心躍る冒険ファンタジーだった。
ゆえに冒険ファンタジーを書き始めた五年ほど前から哲学書は読んでいない。
代わりに登山などをしている。
そうすると、哲学では得られなかったものを徐々に感じるようになってきた。
高山の景色は論理的に説明できない物がある。
昔の私ならば、それを宗教と結びつけて考えたかもしれない。
しかし、私は山に行くと景色を見ながら脳内で文章を作る。これは昔の癖の名残である。
山は言葉では表せない素晴らしさがある。
例えば、広大な景色を見てヘーゲルの哲学を思い出したとしても、その哲学は狭い人間の頭の中で繰り広げられたものとしか思えない。
私は小説を書くが、読む方は、あまり哲学的な物は読まない。
エンタメと割り切るというつもりはないが、純文学寄りのエンタメを好む。
哲学書を読み続けないというのは努力である。
最初はときどき哲学書を読みたいという衝動に駆られたが、今はそのような衝動はまったくない。
読まないことでわかることも多い。
哲学の歴史は終わることはない。
新しい哲学を追いかけていたところで究極の答えはない。
そんなものと死ぬまで付き合いたいとは思わない。
哲学は生きている以上誰もがすることだが、私は哲学書をある程度読んできたから、そこから離れても、思考にもその効果が現れると思う。
例えば、山に登った感想文を書いたとしても、哲学を読んでいない人と比べれば、完全には哲学でない哲学的文章を書けるだろう。
小説も想像力豊かな者が書けると思う。
哲学は物語をバッサリと論理で切り刻むことがあるので、私はそれを避けたいと思う。小説を哲学の端女にはしたくない。
哲学書は読まない方が人格が安定すると思う。
自分と百八十度違う考え方に触れて、しかも長時間触れることで自分がわからなくなることもよくあると思う。
先に名を上げたヘーゲルの言葉に、肯定の塊になって反論を否定するのは弱い知性である、反論を汲み入れて、より高次の思想に止揚することが知性ある者の態度である、みたいなのがあった。
しかし、肯定の塊も必要なのではないかと最近は思う。
人生に筋を通すのは何かを強く信じることが重要であると思うからだ。
読まないという哲学、いや、生き方は確実に存在する。
いや、ほとんどの人はそういう生き方をしている。
特に何かに成功する人ほどそうだ。
私も成功できるよう、哲学書は読まないことにしている。
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