夢敗れた者が、小説家を目指すということ
私は小説家を目指している四十五歳男性である。
今日は雨で外に行けなかったので、最近書き上げた新作をプリントアウトしてみた。
紙にすると、その厚さから、「ああ、書いたな~」と満足感が得られる。
ところで考えたのだが、小説家になろうとすることはどういうことだろう?
このnoteを見ても思うのだが、小説家というのは夢敗れた人たちが最後に行き着く、「夢」なのではないだろうか?
そういえば私も少年の頃はプロ野球選手になりたくて、なれそもうないから十四歳でマンガ家を目指し始め、宮崎駿みたいなアニメ映画を作りたいと思うようになって、名作映画を観まくる生活をして、マンガが売れる→アニメのプロダクションを作る→アニメ映画を作るという夢を思い描くようになり、大学生の頃までそのスタートラインであるマンガ家デビューを夢見ていたが、絵が下手であることから夢敗れ、二十代半ばから小説家を目指し始めた。三十代まで芥川賞を狙って純文学を書いていたが、四十代手前に来て、「俺が書きたかったのは純文学だろうか?」と自問したら、私が書きたかったのは、宮崎駿の冒険アニメみたいのだったことに気づいた。その物語の哲学は十四歳から温めてきたわけだから、単に夢敗れて小説を書くわけではない、夢の続きをそこに見つけた。四十五歳でまだ十四歳からの夢を追いかけているのである。
私は文章力があるとか教養があるとか深い哲学があるとかいうわけではない。一番考えてきたのは「物語とはどうあるべきか」というようなことで、「小説」ではなく、「物語」を作りたいのである。それは映画でもマンガでもアニメでも何でも良かったのかもしれない。文章表現である小説にこだわることはないが、一番、コストがかからずに身近にある表現が小説だったに過ぎない。いや、小説ではない、物語だ。それは叙事詩かもしれない、戯曲かもしれない、とにかく物語だ。マンガは諦めたが、文章表現は二十年以上磨いてきた。文章には少しばかり自信がある。私は古文を読めないし、外国語が出来るわけでもない。語彙が豊富にあるわけでもない。だが、自分の文体は持っているつもりだ。そいつで天下を取りに行こうと思う。
私は「小説家になれたらいいな」と軽い気持ちで考えてはいない。
「絶対に天下を取る」そう考えている。
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