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歓びを感じる力

最近、自分の登山の趣味が貧乏くさいのではないかなどという記事を書いた。上のふたつだ。
登山で食べるおにぎりとか、パンとか、インスタントラーメンとか、安い趣味だというわけだ。しかし、私はそれを否定しようと思った。
それでもやっぱりまだ考えてしまう。
自分が今楽しんでいるこの場面は、最高のものなのか、と。
これは若い頃から私の中の感覚にあった。
私は若い頃から、有名で金持ちになりたいという夢を持っていた。
将来、有名な芸術家になって、金持ちになり、豪邸を建てようと思っていた。
ピカソみたいに、落書きにサインをすれば、現金を持ち歩かなくても旅行ができるくらいな芸術家だ。
そんな夢を見ていた私は学生時代の貧しい現実が嫌でたまらなかった。
現在を楽しめなかった。
将来の夢が現在の歓びを否定した。
旅行に行って贅沢なホテルに泊まっても、「世の中にはもっと贅沢なホテルがある。この程度のホテルで贅沢を感じる俺は安い奴だ」などと思って、その時、泊まっているホテルから歓びを得ることはできなかった。
少し、ニュアンスが変わるが、大学受験を経た私の学歴主義もこれに似ている。
私は國學院大學に進学したのだが、青山学院に進学した友人に、「ああ、國學院か、青学の裏にある大学ね」と言われた。私は、「いや、裏とか言うなよ。たしかに青学から見たら裏にあるかも知れないけど、渋谷駅から見れば全然違う方向だぞ」とか言ったが、私たちの中には、國學院より青学のほうが偏差値が高いという意識があった。私たちの上には私学では、早稲田や慶応などがあって、さらに上には、東大などがあるのだった。私はそのような偏差値で大学を見ることが國學院に入学しても続いていて、「こんな大学で、キャンパスライフをエンジョイしていたら、二流三流の人間で終わっちまうぞ」などと思って、いつも独りで読書などしていた。大学生活をまったく楽しめていなかった。
偏差値で人間の序列をつける人間は、大学受験が遠い過去である五十代六十代になってもいるらしい。
現在の歓びを否定する例は他にもあるだろうが、とにかく、「もっといい楽しみがあるだろうな」と思うことが、現在の楽しみをつまらないものにしてしまう要因だと思う。
登山では、私は日本の中部地方の山を中心に考えているのだが、エベレストやマッターホルンなど、世界の著名な山に登る方が価値があるとか、考えても良さそうだが、あまり、そうは考えない。日本の、特に中部地方の山をひとつずつ攻めていけばいいかなと思う。しかし、もし私が金持ちだったら、エベレストやマッターホルンを目指すだろうかと考えると、たぶん、やっぱり目指さないと思う。それは私の登山技術では叶わぬ夢だからだ。しかし、そう思うのもカネがないからだと言えばそうかもしれないとも思う。私の登山の趣味も、まったくカネがない人から見たら、ずいぶんな贅沢だからだ。それはもしかしたら、高卒から見た國學院卒みたいなものかもしれない。
しかし、私よりカネのない人から見たら私の登山は贅沢だ、だから私は贅沢をしているのだ、と思うのも違うと思う。歓びとは誰かと比較してどうこう言うものではないからだ。
歓びとは誰かが価値づけた大系の中にあるのではない。
千円のラーメンより、三万円のステーキの方が美味いというわけでもない。
ラーメンとステーキでは比較の基準が全然違う。
大事なのは、安いラーメンでも「こんなに贅沢なものはない」と思って食べることだ。
それは身の丈に合っているとか、安い舌であるとか、そういうものではなく、歓びを感じる力があるかないかである。千円の美味いラーメンに満足できない人は、三万円のステーキも、それより上があるとか思って満足できないかも知れない。逆に千円のラーメンに最高に満足できる人は三万円のステーキでも最高に満足できるだろう。
そのような歓びを感じる主体を、「歓びの感覚受容体」と呼びたい。
感覚受容体とは人体にあるものだが、私は心にもそれがあると考える。
「歓びの感覚受容体」はそれが安いからとか、価値が低いとされているから、という理由で、目の前の歓びを感じないものではない。仮に、どこかの大学に合格したとして、その大学の偏差値が低かったとしても、歓びの感覚受容体が正常に働いている人は自らの大学合格を素直に喜ぶことができるが、感覚受容体が、他者の価値観で歪められてしまった人は、低い偏差値の大学に受かったことを素直に喜べないだろう。もちろんこれは食べ物などにも言える。安いお菓子を美味しく食べることができず、値段を知っている高級菓子しか美味いと感じないとしたら、それは感覚受容体が歪んでいる可能性がある。お菓子を食べてそれが美味いかどうかを判断するときに、人は普通、値段を訊いたりはしない。値段などの数字は人の感覚受容体を歪ませることがある。大学の偏差値もそうだろう。
私が登山が貧乏くさいのではないかと考えたのも、その費用の安さという数字にある。コンビニのおにぎりを山の上で食べるのは貧しいのではないか、と考えるのは、感覚受容体が、おにぎりの値段という数字に麻痺させられているからだ。登山の魅力が、その山に行くためにどれだけ経費がかかっているかで決まるとしたらバカな話だ。
人生の歓びは、そのときそのときにある歓びを、感覚受容体を全開にして感じ取ることのできる者が最も良く味わえて、感覚受容体が外部から歪められた者はせっかくの人生がつまらないものになるだけなのである。
八ヶ岳がつまらなく、マッターホルンのほうが楽しいということはない。八ヶ岳を楽しんでいるときは、それを存分に楽しめば良く、マッターホルンでも同じことが言えるのである。
人生にはいろいろなことがある。そのときどきに歓びを精一杯感じられるように、感覚受容体の健康を維持することが、幸福に生きるために最も必要なことだと思う。

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