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八ヶ岳、赤岳、深夜の登山

私がテントの中で目を覚したのは、零時九分のことだった。デジタルの腕時計には「12:09」と表示してあったので違和感があったが、すぐに午前零時のことだと気づいた。いかんせん早すぎる。私はもう一度眼を閉じた。
私がいるのは、八ヶ岳、赤岳鉱泉のテント場である。昨日は何度もテントの場所を変えて、最終的に落ち着いたのがこの場所だった。平らで快適な眠りに就くことができた。
十九時に寝たから二十四時では五時間眠ったことになる。
そして、次に目が醒めたのは、一時三十分頃だった。
もう疲れもなく、元気いっぱいで、出発の準備もあらかじめできていた。
元気な私は思った。
「そうだ、今から登れば、赤岳山頂で御来光を拝めるかもしれない」
私はテントを出て、小屋の炊事場に行き、湯を沸かしてコーヒーを水筒に淹れた。アンパンとカツサンドを食べた。ヘッドランプの調子がおかしかった。光が消えてしまったのだ。予備のヘッドランプにしようと思ったが、こちらも接触が悪いのか芳しくない。いや、夜中の登山では光は死活問題だ。予備でない方のヘッドランプの電池を交換したら点いたので、それを着けた。予備の方は、ベルトの調節が暗い中では難しいと思い、使うのをやめた。
こうして、ヘッドランプに心許なさを感じながらも深夜二時十三分私は赤岳鉱泉を出発した。
そして、すぐに道に迷いそうになった。直進するべきような気がしたが左にも道があるように見える。直進方向には倒木などがあるようだ。私はどうしようかと困った。そこで、スマホを取り出して登山アプリ「ヤマップ」を開いた。すると、目指す次の目標地、行者小屋には左方向に行くべきだとわかった。
私は暗い深夜の森の中をヤマップのみを頼りに登っていった。
今回は五月の登山と言うことで、軽アイゼンを使ってみたいと思っていたが、たしかに登山道の中央には雪が残っている箇所もあったが、軽アイゼンを使うまでもなかった。残雪期の登山は初めてである。
行者小屋には思いのほか早く着いた。
私はすぐに先へ進んだ。
文三郎尾根に進路を取った。
樹林帯を抜けると、鉄製の階段や梯子が出てくる。
空は雲があるがわずかに星も見える。日の出が見える可能性は五分五分だと思った。
しかし、とにかく寒かった。
私はこのとき、Tシャツとボタンシャツ、それからジャージの上着を着ていた。ライトダウンは持っていたが、汗をかく行動中に着るには相応しくなかった。それより上はアウターのレインウェアがあるばかりだった。これは最終手段なので汗の出る登山中はなるべくジャージで行こうと思った。
鉄製の階段の手すりを私は素手で掴んだ。冷たかった。落ちたら死ぬ、その思いが素手の凍えを受け入れさせた。
空の雲はやや光を孕んでいて、おそらく下界の明かりを反映させているのだろうと思った。それとも、もしくは、日の出前数時間から、このように空にある雲は明るく見えるのだろうか、などとも思った。なにしろ初めての深夜登山である。もちろんヘッドランプを消したら闇だ。
梯子を昇りながら私は孤独を思った。
「今、この赤岳を文三郎尾根から攻めているのはおそらく俺だけだ。世界中に何億と人がいる中で、おそらくこの赤岳の岩稜を攻めているのは俺だけだ」
何の意味もない思考である。それなのになぜかその思いだけが強く心にあった。
ザックにはヘルメットをぶら下げていたが、次第に岩場になり落石の危険を感じても私は深夜の岩登りなど初めてで、ヘルメットを被りつつヘッドランプを着けるにはどうしたらいいだろう?などと思い、その不安から、おそらく自分の前には人は登っていない、だから落石が来る可能性は低い、などと勝手な判断をして、ヘルメットは被らずに岩場を登っていった。
途中、腕時計のアラームが鳴った。
四時ちょうどだ。本来起きる予定時刻だ。しかし、このとき、私はすでに赤岳山頂の岩場の始まりにいた。
「たしか、日の出は四時半頃だ。ちょうどいい」
私はまたヘルメットも被らず岩稜を登っていった。
東の空が明るみ、東側の山並みが見えた。
私はカメラを出しシャッターを切った。


「いいぞ、山頂で晴れたらそれがベストだ」
私は岩を登っていった。
しかし、霧はなかなか晴れなかった。
岩場を登るうちに私は東西南北を見失っていた。
看板があり、頂上の方向がまるで私の見当違いの方向を指していた。
またヤマップで確認した。
私は間違っていた。
東側の岩場を登っていたつもりがいつの間にか西側の岩場を登っていたことに気づいた。
そして、しばらく、命懸けで登っていくと、頂上に着いた。
そこには神を祀る祠があった。

赤岳山頂の祠


ユーチューブで見ていたので、それが山頂であることを確信した。もちろん山頂を示す杭に、「赤岳、2899メートル」とあったのもここが山頂であることを証明していた。
霧は深かった。
私は日の出を見るのを待つために、レインウェアの上着を着た。
そして、出発前に淹れたコーヒーを水筒から飲んだ。
喉元過ぎれば熱さを忘れると言うが、ここでは口の中は温まるが、喉に届く頃にはもう温かみを感じられなかった。
私は独りだった。
なぜ、俺はここにいるのだ?
なぜ、たった独りでこんな所で日の出を待っているのか?
時刻を見ると、もう日の出ているはずの時間だ。
だが、周りは光る霧である。
私は、霧が晴れることはもうしばらくない、もう寒くて待っていられない、と思い、レインウェアを脱いで、山頂をあとにした。
光る霧の中を私は頂上山荘の方に向かって、歩いて行った。

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