見出し画像

読書家と表現者

最初に断っておくが、私は小説家志望の男である。
去年の一月から、一年以上、ほぼまったく読書をしていない。小説やブログを書くばかりで、アウトプットばかりしている。
読書家はたくさん本を読んでいる人のことを言うのだと思う。
読書をすると頭が良くなるとよく言われる。
しかし、読書はインプット専門である。
普段、文章を書かない読書家がアウトプットすると、偉大な作品の引用ばかりで自分は知っているんだという顔をして、実は自分で考えていないという人が多い気がする。
私は子供時代はマンガしか読まなかった。そのため読書家と議論すると、偉大な思想家や作家などの名前とその言葉を出されると即負けを喫することになった。「この無知が!」と言われて終わりなのである。だから、大学生の頃から、歴史上の偉大な作品をたくさん読むようにしてきた。読書家に負けないようにという思いでやってきた。と同時に、マンガ、小説、絵画などのように表現も続けてきた。
そのため、いかに表現が自分の思考力を高めるかを身をもって知っているつもりだ。
しかし、世の中には中身のない薄っぺらな表現者もいる。自分の感情を表現すると言って、ただアイラブユーを繰り返していることが表現だと思っている人もいるようだ。そんなとき、私は読書の大切さを思う。
しかし、私は大学で哲学科を出ているのだが、老人ホームで介護の仕事をしていて、高卒の読書家でないが仕事の出来る女の子に、「読書が何の役に立つの?」と言われると何も答えられないのだ。介護の現場では医療、看護の知識こそ役に立ち、哲学や小説などまったく役に立たない、と見做される。
文学や哲学の知識は表現しない限り、知っているとは見做されないのだ。しかも、役に立つかどうかでは、表現したことによって金持ちになったりしないと読書家でない一般の人には無駄な知識と見做されるらしい。
表現でも一般の人が読まないような哲学書を書いたとしても、一般の人は理解不能なそれを認めてくれないだろう。せいぜい、偉い学者が認めているから凄いのだろうくらいに思われるだけだ。一般の人に認められるには、一般の人が認めざるを得ない表現をしなければならない。それは小説であったり、映画であったり、マンガであったりする。無知な人は無視すればいいという考え方もできるだろうが、私はそうは思わない。私は小説を志しているが、意識としてはハリウッド映画がライバルだ。映画は歴史的に大衆のものだ。そこで飛び抜けて良い名作は、必ず多くの人の心を捉えるものだ。私は大学生のときに観た『タイタニック』が好きなのだが、あれは多くの人の心を捉えた。偉い人たちがなんと言おうと、多くの人を感動させたのは事実なのである。「これを読みなさい」と上から押しつけられるのではなく、『タイタニック』は多くの人が映画館に自ら足を運んで入場料を払って観たのである。そういう力は、権威づけられただけの文学や哲学にはない。無知な人、教養のない人も巻き込むくらいの表現をしなければ上手い表現とは言えないと思う。
どうしたら教養のない人がわかってくれるか、そこに頭を捻るのが表現者である。
そもそも表現とは人に何かを伝えるものである。相手がわかるように表現しなくては表現ではない。文学や哲学も少なくとも、文学者や哲学者がわかるくらいの表現でなければ認められないだろう。わかりやすさが求められる点は、相手が無教養の者でも知識人でも程度の差こそあれ変わらないのである。
読書家はただ読むのではなく、小説が好きならば小説を書いたり、マンガが好きならばマンガを描いたり、哲学が好きならば哲学論文を書くなどして、あるいは書こうとして、初めて偉大な作家の力がわかると思う。小説の場合、批判精神ばかりが育ち、批判は出来るが自ら小説を書けないという人は批判する資格があるか怪しいものだ。そういう私も映画を批判することはよくあるが、実際に撮ったことがないので偉そうなことは言えない。ただ、私は小説という媒体を選んだが、マンガ、映画、その他物語芸術を表現手段は異なれど基本は同じものだと見做している。だから、小説家を目指しているが、ライバルは映画監督であり、マンガ家なのである。
小説は何かを伝えようとするものだと考えられもするが、私は必ずしもそうは思わなく、単に物語だと見做している。なぜならば、ただメッセージを伝えたいならばそれを直接言えばよいのだ。物語は何を表現しているのだろう?この問題はまた別の機会に語るかもしれないし、語らないかもしれない。私は物語を作る実践家でありたいからだ。それを論じるのは評論家で良い。
物語はいったい何を表現しているのだろう?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?