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徒然エッセイ⑤メディアについて考える

人間はいつからか私は知らないが、言葉を話すようになった。これにより意思伝達のための言語空間を人間は持つようになった。これが最初のメディアだと思う。
そして、画期的なのが文字の発明だ。これは何千年前か知らないが、人類の歴史からすると相当新しいものだと思う。これにより、思想の保管ができるようになった。百年前の思想を百年後に読むことができる。この文字というものは表音文字や表意文字などがあるそうだ。表音文字は音を視覚化したもので、耳で聞いていた言葉が目で見えるようになった。表意文字は意味の視覚化だ。それを見れば意味を直接認識できる。文字は基本、耳と目で認識できるものだと言える。そして、きわめて新しい文字として、視覚障害者が使う点字がある。点字は指で触って意味を認識するものだ。つまり触覚から意味を認識する。

そして、現代を作る画期的な発明が、写真と蓄音機だ。写真は文字を通さず視覚に直接訴えることができるし、蓄音機は音声を保管でき、いつでも耳で過去の音声を聞くことができる。現代の情報技術は基本的にこの写真と蓄音機の発展したものと言える。もちろん文字もまだ生きている。
文字はひとまず置いておく。
写真と蓄音機は視覚と聴覚に訴えるものだ。しかし、人間には五感と言われる感覚器官があって、視覚と聴覚はそのうちのふたつに過ぎない。残りの三つは、味覚、嗅覚、触覚だ。私が今回、この記事を書こうと思った動機は、この味覚、嗅覚、触覚のメディアができたらどんなだろうな、と思ったところにある。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚のメディアができたら、何が現実で、何が架空の物か判断するのが難しくなるのではないだろうか?そうなった場合、私たちはどこにいるのかわからなくなってしまうのではないだろうか?
視覚系メディアと聴覚系メディアはすでにある。これに文字が加わたったのが現代のメディアだが、私たちはこれらのメディアのためにすでに現実と架空の区別がつきづらくなっているのではないだろうか。
食事は味覚と嗅覚、触覚のメディア化していない現実であると思う。
テレビはどうだろうか?ドラマを見る場合を考えてみよう。このドラマはフィクションであり実在の人物、団体などとは関係ありません、などと言ったところで、私たちはなんとなくドラマの世界と現実を繋げてしまわないだろうか。ドラマでなくともニュース、報道番組はどうだろうか?私たちはテレビを通して世間のイメージを構築していないだろうか。これは私がインターネットなどの普及する前に育った人間なのでネットよりテレビというメディアが一番身近だから言うのだが、常識はテレビの中にあるというふうに思っている人も多いのではないだろうか。もちろんネットもそうだ。私たちは実際に体験していない遠くの情報を日常の中に取り込んでいないだろうか。それらはこの文脈では視覚と聴覚のみの情報だ。先に言ったように、もし、味覚や嗅覚、触覚がメディア化されたら、私たちの現実が本当に危ういものになってしまうと思う。それがすでに視覚、聴覚の分野では起きているのだ。いや、文字が発明されて以来、文字を読める人間は、文字空間を持っていた。それ以前の人間も声で伝達する言語空間を持っていた。その時点で自分のいるその場と言語空間との違いが曖昧になったのではないだろうか?

現実とはなんだろうか?
メディアにできない領域、「痛み」はどうだろうか?触覚の一種の痛覚に訴えるメディアがあるとしたら、それは疑似体験ではなく本当の痛みだから現実と言えるかもしない。そう考えると、音楽で蓄音機から流れてくるものは生演奏ではなくとも現実の音楽だ。メディアは非現実とは必ずしも言い切れないようだ。嗅覚はどうだろうか?嗅覚に訴えるメディアができたとして、匂いを感じる、それは現実と言えそうだ。味覚はどうだろうか?味覚を伝えるメディアができたらそれは現実だろうか?味を感じるだけならば現実かもしれない。ただし腹は膨れないだろう。いや、腹が膨れる感覚、満腹中枢に訴えるメディアがあれば私たちはメディア内で食事ができるかもしれない。しかし、それは実際は何も食べていないのだ。そうは言っても、触覚として口の中で触感が楽しめるメディアがあればそれは触覚として現実だろう。触覚は体中にある。自分の近くにない物を触れるのはメディアの特徴だろう。暑さ、寒さなどもメディアで体験できるかもしれない。近未来、メディアでは体験できない五感の残された領域はどんどん狭まるような気がする。

ところで、人間は五感だけで生きているのだろうか?
そんなはずはない。
例えば、悲しい、というのは五感ではない。悲しいと思うことに死別などがある。これは映画などのメディアで疑似体験できる。しかし、自分が死ぬことはメディア内ではできない。そして、人生はその「死」を見つめることで、本当の生きる実感を覚えることができるのではないだろうか?死ぬ前にこれだけはしておきたい、というものもあるだろう。そうなって初めて人はメディアではなく現実に目覚めるのではないだろうか?例えば、努力をして何かを達成する歓びとは、そもそもメディアの「簡単に体験できる」という性質に反するものだと思う。あるいは、苦しんでみたい、とか、悩んでみたい、などという欲望が人間にはなぜかある気がする。例えば、できなかった逆上がりが努力の末できるようになったという歓び。逆上がりなどできなくとも、幸福とか不幸とかとはなんら関係がない。人間はただ楽しくありたい幸せでありたいという生き物ではない。
メディアの中にも新しくできた、人間が挑戦できる領域がある。例えば「ユーチューバーになりたい」という人は多い。逆上がりに必要な鉄棒が、ユーチューブなのだ。古くは、文字が発明されてから、人類は文学を発明した。なぜ私たちは文学を書き、読むのだろう?そこには疑似体験以上のものがあるのではないだろうか?写真の発明のあと、映画ができた。すぐに映画は単なる現実の記録ではなく文学と結びついて「映画」となった。私たち人間はどうやら、現実とは違う別世界を作りたい生き物のようだ。

人類はメディアを発明した以上、メディアと付き合っていかなければならないようだ。メディアは私たちの生活を補完するものかもしれない。ただ、現実を見失ってはいけないと私は思うのだ。現実とは人生の歓びや悲しみを味わうものだ。そして、最後は死ぬのだ。自分の死はメディアの中には絶対にないものだ。死という現実を受け止め、本気で生きれば、「真実の人生」を生きることになると思う。

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