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徒然エッセイ⑧父の葬式を考える

最近、父の老いを感じる。七十五歳だ。老いというのは個人差がある。これは老人ホームで働いている私だからよくわかることだ。
私の父は健康である。だが、最近、もともと頑固だったところが、より鮮明になってきた。これは老いによるものであるように思う。先は長くないだろう。そう思うと、私は父の葬式のことを考える。
二十八年前に祖父が死に、数年前に祖母が死んだ。数年前と言うのは、私が祖母の死を正確に何年前だったか、記憶していないからだが、たぶん、四年前だと思う。だからといって、私が祖母を忘れているとかいうわけではない。忘れた日など一日もない。ただ、命日とか何回忌とか、そういうのはよくわからない。
法事というものがある。死んだ人を悼むために家族親族が集まるのは大事だ。特に両親が死んだあと兄弟が集まるという機会はなかなかないことが多いように思う。そういう意味では大切だ。しかし、宗教的意味があるからというのは、私の好むところではない。うちは仏教の曹洞宗の檀家らしいのだが、私にはそんな帰属意識はない。祖父母が幼くして死んだ息子のために市の霊園に墓を立てた、その管理者が曹洞宗の寺だったに過ぎない。四十九日だとか初盆だとか、よくわからない。そもそも葬式がわからない。坊主がお経をあげるが、なんと言っているかわからない。参列者の誰が意味を理解しながら聞いているのだろう。祖母の葬式の時など、お経をあげたあと、坊主が偉そうなことを言うのだが、そのときは、「左手があの世、右手がこの世、手を合わせることはあの世とこの世が繋がることを意味します」はぁ?くだらない、理屈こねやがって、私は半分怒りさえ覚えた。葬式後、母が寺に電話していた。葬式のお礼に寺にいくら納めればいいかを聞いていた。
「お気持ちでいいでは困ります。相場を教えてください。いえ、お気持ちでいいでは困ります、相場を教えてください」
私は五千円くらい納めとけばいいんじゃないか、あの坊主はその程度の仕事しかしてないだろう、そう思った。私は昔、植木の仕事で炎天下で一日くたくたになるまで働いて、八千円だったから、そこから考えても、坊主の仕事内容は五千円程度が妥当だと思った。
で、結局、あとで母に訊いたら、五十万円払ったとのことだった。アホだ。
お経で五十万円!まあ、お経以外にもいろいろやってるんだろうが、五十万円は高すぎる。
それに戒名という死後の名があるそうだが、それをつけるにもカネがかかるらしく、そのかかったカネの多寡によって、死後の名前に格差があるらしい。アホだ!
去年死んだ伯父の戒名は、うちの祖父より格が低いと伯母から聞いた。なんなんだそれは。
お経も戒名も意味ねえぞ。みんな、日頃から死を考えろ。私たちは絶対死ぬんだ。それは事実だ。「縁起でもない」なんて言うなよ。絶対死ぬんだよ、みんな。絶対死ぬからいい人生にしようと思えるんじゃないか?親も死ぬんだよ。いざ死んでみて、わけのわらんお経に五十万円払うのはバカだよ。

私は父が死んだら、寺にはお世話にならないと決めた。母も賛成した。近親者だけでお別れの会を開きたい。それでも父の友人や知人などが訪ねてくるかもしれない。そのときは香典はお断りしよう。父の死に顔を見ていただくだけにしよう。墓は祖父と祖母が立てた墓に入れる。寺の檀家としてではなく、市の霊園だから市民として入れる。寺は管理者に過ぎない。寺には管理に必要な費用くらいは払う。まさか、五十万円もしないだろう。

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