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面白い物語ではなく、美しい物語を

私は小説家を目指している者だが、最近、即興で書きなぐった大長編を終えて、以前から書き途中であった別の長編に取り組んでいる。その長編は、結末から構想を練っていて、現在どうやってその結末まで結びつけるかに苦労している。二部構成で、もう一部は書き上げてあり、二部の四分の一くらいは書いてあるが、結末までの道筋が見えない。しかし、結末から考えるやり方は、たぶん面白い小説を書くには相応しくない書き方だろう。結末から書く場合、二度三度読むほど味が出てくる作品ができるだろうが、一度目が面白くないと読者は一度も読んでくれないのである。しかし、一度目は面白いが二度目はまったく面白くない小説というのも世の中にはたくさんある。推理小説などはたいがい二度目は面白くない。二度三度読むほどに感慨を受ける作品が名著になるのだと思う。私は名著を書きたい。
そこで思うのだが、私は「面白い物語」よりも「美しい物語」を求めているような気がする。
面白い物語というのは多くの人に理解されるだろうが、「美しい物語」とはなんなのか、それを説明することは難しい。少なくとも、「美談」という意味ではない。初見ではそれほど面白くないかもしれないが、作品の構成が美しく、いつまでも記憶に残る物語のことだ。いや、もちろん初見が面白いほうが良い。ただ、初見でメチャメチャ面白いと興奮しても、二度目にそれほど興奮しない物語は何度も読み返されることはない。いや、もちろんそれでいいと言う人もいるだろうが、私は記憶に残る物語の構成を大事にしている。冒頭に書いた即興の大長編は、物語の構成としては美しくない。いや、結末でそれなりの構成にまとめあげたつもりだが、一年以上も連載する長さが必要だったかというと、やはり長すぎたと思う。物語の長さは、映画で言うと、四時間くらいが限度だと思う。それ以上に長いものは、観る側のことを考えていない。それに、全体の記憶が残らない場合が多い。長編だから価値があるというわけでもない。五分で読める短編でも、記憶に強烈に残れば傑作だ。
物語の美しさは、長さだけではない。何度も言うがその構成にある。緩急の付け方、クライマックスへの効果的溜め、物語を展開する場所の的確な描写、物語全体のクライマックスの回数、ラストの結び方、そして、テーマとしての普遍性。現代の純文学はテーマばかりが評価され、物語の美しさが評価されていない気がする。純文学でないのはエンタメとされてしまうが、美しい物語は、純文学でも単なるエンタメでもない。純文学のテーマ性とエンタメの面白さ、それらふたつが揃って、美しい物語ができると言える。いや、テーマ性や面白さがなくても美しい物語はあるかもしれない。いや、テーマ性があれば記憶に残りやすいし、面白さがあれば、初見のインパクトは強烈だろう。読んでくれなければ意味はないのでやはり初見の面白さは必須かもしれない。そして、記憶に残りやすい構成にすることで、何度も手に取って読んでくれる作品となるだろう。何度も手に取ると言うことは、そこに美しさがあるからこそだと思う。もちろんそこに深いテーマがなければ、何度も手に取ることはないだろう。つまり深いテーマと、初見の面白さと、美しい構成があることが、後世に残る作品の条件だと思う。

大長編『最低な三人の異世界転生ドラゴニア冒険記』


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