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徒然エッセイ⑪北野武の映画について

私が大学生のときに、北野武が『HANABI』でベネチア国際映画祭の最高賞の金獅子賞を受賞した。タレントビートたけしの認識しかなかった私は驚いて映画館に足を運んだ。観たら、「すげえな」と思った。アパートに帰ると、ビデオを借りて、他の映画も観た。『キッズリターン』は最高だった。下品で暴力的で無気力で性欲と出世欲ばかりがある若い自分に北野武は似ていた。この映画の「まだ始まっちゃいねえよ」というセリフのラストを観て、自分は「もう終わっているのか」「まだ始まっていないのか」「もう始まっているのか」よく考えた。北野武はタレントとして大成功していても、「まだ始まっていない」と思っているのだろうかと考えた。「始まる」とはどういうことだろう?人生の始まり。もしかしてそれは、ルソーの「第二の誕生」みたいなものなのだろうか?ただ、精神を病んでいた私は「まだ始まっていない」という言葉に救われた部分は大きい。

『ソナチネ』は現実以上にリアルだと思った。北野武の映画は日常の中に暴力が潜んでいることを常に感じさせるところが魅力なのだと思うが、『ソナチネ』は私が観た彼の作品の中で最も怖い作品だと思う。
では、現実以上にリアルとはどういうことだろう?少し言い方を変えれば、「現実よりもリアリティがある」と言ったらいいかと思う。つまりリアリティは現実(リアル)ではない。北野の映画の場合、リアリティとしてのフィクションばかりが強調されている。つまり暴力の影が肥大化した現実を描いている。この現実は多くの人、特に男、そして多くは社会階層としては下のほうにいる男が実際に描いている自分の日常を肥大化したものだ。ようするに喧嘩っ早い男はだいたい北野の映画のような現実を生きている。私はそんな現実が嫌で、宮崎駿の世界を生きたいと思った。宮崎駿は北野武の真逆の世界を持っている。世界に暴力の影を感じさせない。性欲すら感じさせない。不思議なのはこのふたりの映画監督の音楽を担当しているのが、同じ久石譲であることだ。久石譲は宮崎アニメの曲で有名だが、北野の暴力的な映画も好きなのだろうか?まあ、音楽のことはここではこれ以上触れない。
とにかく北野武の映画は暴力の影があるためにリアリティがある。私は思うのだが暴力こそがもっとも現実的だということだ。哲学的な思考は暴力の前に屈しやすい。銃を突きつけられて、「それは玩具の銃かもしれない」とデカルトみたいに疑うことはできるが、「じゃあ、引き金を引いてもいいのか」と言われたら絶対に「やめてくれ」と誰もが言うだろう。いや、キリストみたいに屈しないのがもっとも強い精神かもしれない。

人間の精神は物理的な力に屈しやすい。北野武に話を戻すが、彼は相当なリアリストだ。彼の漫才でこんなのがあった。
「絞首刑ってあるじゃないですか、死刑の。あれ縄に首を通して、執行官がボタンを押せば、床が開いて死刑囚は落ちて縄に吊られて死ぬんだけど、間違えて縄に首を通す前に執行官がボタンを押しちゃって、死刑囚が下の床に落ちて死んだら、執行官は業務上過失致死の罪に問われるんでしょうかねえ?」
くだらないが、的を射ている。真面目に言えば、死刑囚に人権はあるか、という話だ。国が「おまえは死ね」という決定を下すことはものすごい暴力だ。人権の否定、生命の否定。殺人を否定している国の法律が死刑を認めるというのは論理的に矛盾している。

私は暴力が嫌いだ。
だから、やくざ映画などは観ない。北野武の『アウトレイジ』シリーズは観ていない。シリーズ化するくらいだから面白いのだろう。だが観ない。私の好きな北野武の映画で『菊次郎の夏』がある。ストーリーが単純でその中に盛りだくさんのギャグが織り込まれていて笑えるし、映画を観終わった後はまるでひと夏の思い出ができたかのように思える。しかし、過去に囚われたくないので、好きな映画は何度も観る私だが、この映画はもう観ないことにしている。
なぜなら、私の人生はもう始まっているからだ。

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