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優柔不断な父の言葉について、小説家を目指す私が考えたこと

近年のことだが、私が父と話していたとき、父がまったく理解できないことを言った。
たしか、大学生は卒業後の進路を決めなければいけない、みたいな話だった。
そのときの父の言葉がこれだ。
「別に決めなくてもいいじゃん」
私はまったく理解できなかった。
卒業したらどうするか?時間は前にしか進まないのである。どうするかは必ず決めなければならないと思うのである。
喩えるならば、車を運転していて左右に分かれる分岐に来たら、右か左かを決めなければいけない。決めないという選択肢はあり得ないと私は思うのだ。仮に右か左かを決めない選択肢があるとして、引き返すとか、立ち止まってしばらく待つとか、あるのだろう。しかし、それも行為である以上、どこかでそうすることを決めているはずである。
「決めなくてもいいじゃん」
まったく理解できない。
父は周囲が用意したレールの上を生きて来た人だ。高校、大学、就職、退職、年金暮らし。そのレールから落ちこぼれることはなかった。よく言えば「逃げなかった」と言えるかもしれない。
父は優柔不断で、「決めなくてもいいじゃん」というこの言葉は不断の極みだと思う。
私は中学生の頃、マンガ家になると決めた。高校ではマンガに役立ちそうな科目以外は勉強しなかった。しかし、高校の授業は無駄なような気がしていたが、大学進学という周囲の波に私も呑まれつつあった。私は将来偉大なマンガ家もしくはアニメ映画の監督になると信じ込んで、現実の自分と理想の自分が乖離して精神病になってしまった。それが高二の秋でそれから卒業までまったく勉強をしなかった。大学受験はしたがすべて落ちた。一応、卒業前にマンガを描いて雑誌の新人賞に投稿したが、落選だった。私は予備校に進むことになった。周囲のクラスメイトが行くと言っていた予備校だ。私はとにかく大学に進学しよう、そう思って、国語と英語と世界史だけを勉強した。精神病の頭はその科目のことしか考えていない一年だった。そして、なんとか東京の大学に合格して、一人暮らしが始まった。大学に入学したら、哲学科だったので哲学と文学の本に夢中になった。それと、マンガ家になるためにマンガを独学した。大学一年の終わり頃、私は短編マンガを出版社に持ち込んだ。「絵のクオリティが低すぎる。マンガ家は諦めたほうがいいよ」と言われた。どこに持ち込んでもそう言われた。私は諦めなかった。私は精神病だったが、その狂気を生かした作風にすれば認められるかもしれない、そう思ったが、私の理想は宮崎駿の映画みたいなマンガだったので狂気のマンガの方向性は取らなかった。しかし、大学三年生になると、マンガを描くには健康な心が必要だと悟って、夏休みに実家に帰り精神科を受診した。一年半休学後復学して一年通って卒業した。そのあとは精神科デイケアに通う日々だったが、このままではまずいと思い、肉体労働を始めた。二十代はずっと肉体労働のパートだった。二十五歳くらいから、将来の夢をマンガ家から小説家に変えた。物語を作るという点では同じだった。私は毎年、文学新人賞に作品を投稿した。三十代になってから、肉体労働をやめ、職を転々とした。一度人生のレールから外れた者には世間は厳しいことを肌で感じた。そして、三十四歳で介護職に就いた。介護というか福祉のレールに自ら乗っかり、その上を歩きながら小説家を目指すことにした。介護職は三年経つと介護福祉士の受験資格が得られる。五年経つとケアマネジャーの受験資格が得られると聞いた。小説家を目指しつつもそのレールを歩いて行こうと決めた。そして、介護福祉士になった。その年、新潮新人賞で初めて一次選考を通過した。調子に乗った私は二年後に国家資格ではないケアマネジャーではなく国家資格の社会福祉士を受験しこれも合格した。社会福祉士会に入会し、会員証とバッジをもらった。ようやく世間に認められたと思った。そのせいか、それまで私は障害者手帳の二級を持っていて、障害年金を受給していたが、それが止められ、手帳も三級になった。まあ、それは自分の病気が良くなっているという良いことなので受け入れたが、介護職ではまだパート扱いだった。そのあと、就職九年目にして正規職員になった。社会福祉士ならば当然、介護施設では相談員などをやるが、私は一介の介護士だった。それに不満はなかった。なぜなら私は社会福祉士になりたいのではなく小説家になりたいからだった。相談員などストレスが溜まって、小説に悪影響が出ると思った。だから、現在、四十代の私は介護職に就きながら、小説を書いている。
さて、長々と私の半生を綴ったが、父の言葉、「決めなくてもいいじゃん」はどういう意味かを考えてみたい。
父は、大学は教育学部だった。当然教師になるための学部だ。そこに入った以上、教師になることになる。大学時代のアルバイトは家庭教師だったそうだ。そして、父は教師になった。それから恋愛ではなく見合いで結婚し、私ができた。それから順調に出世し、最後には校長になった。そして、退職し、現在は、テレビを見たり、庭いじりをしたり、地元のサッカーチームの試合を見に行ったり、囲碁をしたり、そんな生活をしている。父がなぜ、教育学部に入学したか聞いたことはないが、そこからはずっと、教育界が敷いたレールの上を歩いただけだ。父の精神は安定している。反対に、レールから外れて夢を追いかけた私は精神病になった。マンガ家になると決めたときに、もうレールから外れることが決まっていた。自分の意志を貫くと決めた。今では、介護士をしながら小説家を目指している。無駄に年会費を取られる社会福祉士会は退会した。もう、介護の仕事をしながら小説を書いて成功するしかない状況にある。一生介護士は嫌だ。それでは、運命に抗った意味がない。私は中学時代に自分の学校の教頭が父で、周りから「教師になるの?」と言われ続けた。教師になるのが「現実」みたいな感じだった。そんなのは他人の決めた人生みたいで嫌だった。今、私は父が教頭になった年齢にある。私は介護士に過ぎない。しかし、世界一の小説家になるという目標がある。そうだ。もう夢ではない、目標だ。小説家を目指しているというのが「現実」になっている。介護の仕事にはレールがある。私はそれに乗っている。しかし、小説家にはレールがない。それは私の心次第でどうにでもなるものだ。
「決めなくてもいいじゃん」
私は決めたのだ。
十四歳の時、マンガ家になると決めてから、病気にはなったものの、ずっと自分の決めた道を歩いてきたのだ。福祉の資格など、その傍らで取った資格に過ぎない。本業は物語を作ることだ。私にしか書けない物語を書いて世界の歴史に名前と作品を残すのだ。

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