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小説家を名乗ってもいいですか?

私は小説家になりたい。
しかし、すでにアイデンティティは小説家である。
ただ、売れてないのである。
商業的にデビューできないのである。
友人が「商業作家になりたかったら・・・」などというのを聞いて、初めて私は商業作家という言葉を知った。私は別に商売として小説を考えていない。つまり儲けるために書いているわけではない。芸術は最高を目指せば勝手に売れるものだと考えている。いや、小説は面白ければ勝手に売れると思う。それは美術などよりはっきりしている。美術は地方の美術館でコンテストで入選したものの展覧会などをやったりするが、そこに足を運んでみると、有名でない芸術家の力量に圧倒される。しかし、彼らは商業的に成功しているとは言えないようだ。例えば、ピカソみたいに売れているかというと売れていない。そういえば、私も美術の世界から遠のいているが、最近の画家と言ったら、バンクシーくらいしか知らない。あれはアートの世界を超えて有名だ。芸術家になりたかったらあのくらいにならなくてはいけない。そのジャンルを代表するくらいにならなくては。私はそのくらいの意気込みで小説を志している。私にとって小説家になるというのは、有名になるということであり、ただ、商業的に食べて行ければいいというわけではない。歴史に名前と作品を残さねばならない。それでなくては私の十四歳からの人生が無駄であったように私は思うかもしれない。私が育ったのは八十年代、アメリカンドリームという言葉をよく聞いた時代だ。私は野球選手になってベーブルースみたいに伝記になるような選手になりたいと思った。しかし、それが無理だと感じるようになり、十四歳でマンガ家を志すようになった。それ以来、二十代で小説家志望に転向したが、ずーーーっと、メジャーな芸術家になることを中心に生きている。その野心は誰にも負けない。別にノーベル文学賞が欲しいとかではない。『ハリー・ポッター』みたいにメガヒットしたいというわけでもない。いや、メガヒットはしたい。しかし、『ハリー・ポッター』の作者はそれ以降、ヒット作を出せているか?続編を書いて稼いでいるだけじゃないだろうか?よく知らないから、これ以上書かないが、私は宮崎駿みたいに、『カリオストロの城』から単品で不朽の名作を作り続けているように、小説を書き続けていきたい。しかし、今、「小説家になろう」に一年二ヶ月ほぼ毎日連載している小説があるのだが、行き当たりばったりで、即興小説でどこまでできるか試している。そんなことでいいのだろうか?私は四十代だ。今が盛りだ。実験小説にしては時間を掛けすぎている。しかもあまり読まれていない。ブックマークが現時点で四十件。なにが、『ハリー・ポッター』だ。私など歴史に名を刻むには能力が足りなすぎるのか?しかし、なぜか、自信があるのだ。それと、これまでの人生が報われるのは小説がヒットしたときだと思う。五十代六十代はすぐに来るだろう。この夢は最後まで見続けようと思う。だが、まだ小説家は名乗れないような気がする。なぜなら、一般的に、小説家とは職業である。私は一円も稼いでないから小説家ではない。小説家志望の者ではある。そこをフライングして「小説家です」と言うのは詐欺かもしれない。詐欺ではなくとも、「小説家です」と言えば相手は「すごい」となり、「まだ一円も稼いでないですけどね」と言えば「な~んだ、ただの自称小説家か」となるだろう。だから、私は小説家志望、小説家を目指している者であり、小説家ではまだない。しかし、小説家を目指す以上、アイデンティティは小説家でなければならない。この内面のアイデンティティと実際の職業を一致させることが今私がしなければならないことなのだ。それは小説を本気で書くことだ。まず、現在の時代でヒットさせて、百年後千年後にも読まれる作品を書かねばならない。それなのに私は「小説家になろう」というオタクの読むサイトでもがいている。『最低な三人の異世界転生ドラゴニア冒険記』という小説だが、『最低な三人』というふざけた小説を十年前に投稿してあったのを思い出し、その続編をふざけて書き始めたのが去年の一月、しかも「異世界転生」という、オタク的な言葉を使って、つまりオタクに迎合して書き始めた、そんなものを一年二ヶ月経った今も書いている。なんなのだ私は?一年以上アイディアの垂れ流しをしている。一行書けば自然と続きが出てくるみたいなコツも知った。そういう収穫もあるが、一年二ヶ月は長すぎる。あと一ヶ月で書き終えたい。そうだ、こんなnoteを書いている場合じゃない。小説を書こう。そうだ、この文章を書いた記念に、プロフィールの「ストーリーライター」の横に(小説家志望)と書くことを宣言しよう。それが、晴れて「小説家」にレベルアップする日を信じて。

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