ライフイベントは既製品ではなく手作りで。能動的ニヒリズム。ファンタジー小説家。
今日、職場で私の同僚が入籍したということを知った。私は「へ~、あいつ彼女いたのか」くらいな感想だった。しかし、私たちは介護士。給料が安い。結婚式を挙げるだけのカネが彼にあるだろうか?そんなことを思って別の若い女性職員に、「結婚式への憧れってある?」と訊いたら、「べつに」と答えが返ってきた。そうなのだ。私も「べつに」なのだ。ハワイかどこかで新妻がウエディングドレスを着て、私も白のモーニングだかタキシードだかを着て、みんなに祝福されながらキスをするとか、そういう妄想はない。そういえば、そういう夢が、夢に過ぎないと思いだしたのが、中学か、高校の頃だったような気がする。小学生の頃は、卒業となると、「ああ、思い出の校舎とお別れか」と号泣したくなる自分がいた。中学では、いや、中学はちょっと嫌な時代だったので端折るが、高校ではもう、三年間の思い出が走馬灯のようになどと言って、涙が止まらない、みんなとお別れが悲しい、などとはまったく思わなかった。高校は大学までの通過点、という感覚を植え付けられていて、でも、大学も、いや、人生そのものがどこかへの通過点という気がしてきて、この世の楽しみとか虚しいものだと思うようになっていた。高校三年間の大切な思い出?ガキじゃあるまいし。それは成人式とかにも当てはまると思う。女子は一応人生に一度だからと晴れ着をレンタルして着るのだが、どれだけの人が、「わー、私たち人生の晴れ舞台にいるんだ。いよいよ成人なんだ。よし、成人として今日からは気を引き締めていくぞ」とか思うのだろうか?成人式など中卒のヤンキーが目立つ最後のチャンスみたいな日でしかない。あの頃、私は精神を病んでいて、人生なんかどうでもいい、マンガ家になって歴史に名を残せればそれでいい、そんなふうに思っていた。私はマンガ家を目指していた。ディズニーや宮崎駿みたいになりたかった。文学部で哲学科だったので、真実の探求をしていた。仏教に囚われていて、というか手塚治虫を通した仏教だったので、全てが虚しいというニヒリズムがあった。だから、せめてこの世に名前くらいは残そうと思ったのだが、今考えれば、死後の名声に囚われるのもまた虚しいものだ。成人式も、誕生日も、お祭りも、クリスマスも、結婚式も、すべて人間が作ったフィクションだ。そういうものにいちいち泣いたり笑ったりしているのはバカらしい。いや、そういうのに泣いて笑って悲しみや喜びを確かめ合うのが人間であり人生だ、と言う人もいるだろうが、まあ、たしかにそうも言えるが、クリエイティブな人間が、クリスマスに彼女がいないでひとりでいつものように本を読んでいる、と言って悲しくなるのは、クリスマスというフィクションに負けていると思う。フィクションを作るクリエイティブな人間ならば、自分がめでたい日を作り上げる演出家にならねばならない。例えば自分が撮った映画が初めて映画館で上映される瞬間とは、毎年来る誰が作ったフィクションか知らぬクリスマスより、ずっと貴重な瞬間だと思う。クリスマスや誕生日や元旦など誰かが作っためでたい日を本気で楽しむよりは、自分の作った記念すべき一日とか瞬間を大事にするのがクリエイティブな大人だろうと思う。いや、芸術家でなくても、自分だけの記念日はある。最初の子供が生まれた瞬間の父親の気持ち!そういうものだ。飲食店の自営業者ならば、自分の店を初めて持ってそのオープンの日。どんな人生でも、自分にとっての記念日はあるだろう。それは漫然と生きていたら経験できないけど積極的に生きたら経験できるものだろう。クリスマスだから、誕生日だから、正月だから、とそのような世間の用意したお祝いに乗っかっているだけの人生は本当の人生じゃない。
私は先にも述べたが、中学生の頃からマンガ家を目指していて、それはなぜかというと、自分が無力だと思ったからだ。大学生の頃とかに、「今を楽しもう」という言葉が流行った。その言葉に乗っかると、まだ無力だが、自由な大学時代は一度しかない。さあ、恋愛だ、セックスだ、飲み会だ、カラオケだ、冬ならばスノボだ、夏ならばバーベキューだ、男女混合のグループで楽しい青春を生きよう。そういうのが私は疑問だった。私は大学時代マンガを描いた。そして、出版社に電話し、その作品を持ち込む日と時間を予約し、もしかしたらこれが世界へのデビューになるかもしれない作品を抱えて電車に乗ったあのドキドキは私のオリジナルな人生だ。もちろん初めて女の子に告白する男の子の気持ちとかもそういうドキドキがあるかもしれないが、大人になるとなかなか、そういうドキドキはなくなるものだ。ドキドキは自分で作るものだ。人生に意味はない。意味を作るのは自分だ。それが能動的ニヒリズムというニーチェの思想だ。
私は今、小説家を目指し小説を書いている。二十代でマンガ家は諦めた。しかし、物語芸術は諦めきれず、今は小説家を目指している。以前は純文学みたいなのを書いていたが、今はファンタジー小説を書いている。なぜなら、そういうファンタジーが好きだからだ。同じ人生ならば好きなことをやって生きたい。私はファンタジー小説に人生を豊かにする源泉を見ている。クリスマスにサンタクロースがトナカイのそりに乗ってやって来るというのは定番のファンタジーだ。みんながこのファンタジーを支持するからクリスマスが日本にも定着した。私の世代では馴染みのないハロウィンも今の若者には共通のファンタジーとして共有されているようだ。人生はファンタジーだ。ファンタジーがあるから、生きる意欲が湧いてくるのだ。そのファンタジーを自分で作るのが大人の人生だ。
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