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懲罰による躾は弱い人間を育てる

私は幼い頃、門限である夕方の鐘が鳴るまでに帰らないと、家の鍵を全部閉められ、家に入れてもらえないという、懲罰を与えられていた。鍵のかかったガラス戸の外から、リビングダイニングキッチンに向かって、泣いて叫ぶのだ。「もうしないから、入れてぇー、ごめんなさい、もう遅れて帰らないからぁ~!」。母は無視してキッチンで食事の仕度をしていた。リビングにいた祖母が見かねて、ガラス戸を開けてくれ、私はようやく中に入れるのだった。そうすると母は言った。「お母さん、甘やかさないでください」。すると祖母は言った。「だってかわいそうじゃないの」。このときはいつも私は祖母に感謝していた。祖母が入れてくれなければ、私は死ぬだろうと思っていた。
このように躾けられた私は大人に叱られると反省する。その反省するときの表情は自分の罪を見つめる表情なのだが、最近はその表情が、懲罰に対する恐怖の表情なのではないかと思うようになった。私はこのような表情をするタイプの人間は優しい善良な人間だと思っていた。しかし、見方を変えれば、自分の罪を指摘されれば、その罪の重さに耐えられず、と言うか、それに対する罰を怖れ、恐怖の表情になるとも言える。悪いことをして叱られ反省するのは、その罪を悔い改めるというより、それに対する懲罰を怖れるからだ。逆に言えば懲罰のある行為が悪い行為だということになる。殺人は死刑があるから最も重い罪だと考えられる。私はこのような、自分の罪を認め反省する人間が好きだったのだが、自分の幼少期を考えると、必ずしもそのような罪悪感は生きていくにはあまり意味のない罪悪感なのではないかと思うようになった。懲罰を怖れて善行を為す人間は、褒められるために善行を為すタイプであると思う。そういう人間は国家が、人を殺せと言えば、殺すのかもしれない。なぜなら国家は誰かが人を殺したら罰として死刑にする権力を持っている。いわば国家は神だ。その神が、敵を殺せと言えば、殺し、殺したら褒められるようになれば、懲罰を怖れ悪行をしなかった人間は、逆に褒められるために人を殺すかもしれない。
息子「ただいまー。お父さん、お母さん、僕、今日は戦場で五人も敵を殺したよ」
母「まあ、偉いわよ」
父「すごいじゃないか。じゃあ、次は十人殺しなさい」
なんて会話が普通にあるかもしれない。
 
懲罰を怖れる罪悪感はあまり意味がない、と私が言ったわけは、大人になると論戦に勝たねばならない場面が出て来るだろう、そうなると、相手が自分の罪を指摘した場合、自分は反省してしまい、言い返せない弱い人間になるからだ。弱くていいではないか、と言う人もいるだろう。しかし、弱い者は大切なものを守れない。
懲罰を怖れる良心は強くない。
私はその恐怖の表情を純情であるためだと思っていた。しかし、それは懲罰への恐怖の表情であり、自分の心を苦しめるばかりで、次にどうしたらいいかの教訓にはすぐに結び付かない。最悪が自殺だ。
反省し自殺する。それは弱い心だ。
そんな弱い人間を育てないためには、懲罰による躾はしてはならない。
子供には将来自分で価値観を創り、自分の価値で生きる強い人間になるように育てねばならない。絶対に人を殺してはならないと言っていた人間が、国家が戦争を始めたら敵を迷いなく「勇敢に」殺すようになっては、なんのための躾かわからない。
私が思うのは、躾、あるいは教育は、自分で物を考えることができるスタートラインに立たせることが目的だと思う。そして、子供には思春期ぐらいになったら、大人が言っていることが本当に正しいことなのか、自分が信じていた教えられたものが本当に正しいものなのか、自発的に反省して欲しいと思う。

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