『心のリハビリ』という哲学
私は高校二年生、十六歳で統合失調症を発症し、一年浪人して十九歳で大学の哲学科に入学しました。精神病は早めに受診するのが鉄則ですが、当時の私はそんなことは知りませんでした。
哲学で病気を治すつもりでした。
大学時代は哲学書を読み漁りました。電車の中、喫茶店、道を歩きながら・・・。
しかし、三年生の夏に思いました。
「もう限界だ、俺は病気だ。現代医学にすがろう」
そう思ったきっかけになった本があって、王陽明の『伝習録』という本でした。
知行合一、知ることは行うことと同じ、逆もまた然り。
王陽明は中国、明の時代の人で学者として名を成したのですが、歳を取ってから学問は無駄だったと悟り、戦争に出かけて大活躍したそうです。
知行合一が正しいかどうかは別として、『伝習録』は初診を受けるきっかけになりました。
じつはこの本を私は途中までしか読んでいません。しかし、そういう本も人生には必要かもしれないと思います。
初診を受けた動機のひとつに、仏教の「他力」という考え方があります。
自分の力ではどうにもならないときは仏にすがるということです。例えば「南無阿弥陀仏」をひたすら唱えれば救われるというやつです。
鎌倉時代などは、現代のような抗精神病薬はありませんから、当時の精神病者にとっては仏教が現代医学だったのではないかと思います。
つまり、私にとって、すがるものは仏教でも現代医学でもなんでもよかったのです。しかし、現代では寺ではなく精神科を受診するのが常識ですから、私はその常識に従いました。脳の外科手術も厭わないつもりで受診しましたが、医師は薬を飲むようにと言っただけで、長期に途切れることなく飲み続けることが大事だとのことでした。
私は他力にすがっていましたから医師の言う通りにしました。
これは自分で物を考えることを放棄しているものではありません。逆に医師の診察を利用しているつもりでした。私は患者というより利用者という立場だと考えました。
デイケアに通うようになったら、その場所に通うこと、そこで出会う人々もすべて私の「心のリハビリ」のためにあると思いました。もちろん友人というものは利用価値があるから友人なのではないことはわかっています。しかし、精神病では「心のリハビリ」を最優先に考えるべきだと思います。
あれから二十年、デイケアでの思い出は私にとってかけがえのないものです。その思い出は心の支えになります。家に籠っていてはそんな思い出すらできませんでした。そんなかけがえのない思い出であっても、当時は本当に苦しかったのです。しかし、人との触れ合いは後から振り返れば当時の苦しさなど忘れさせてしまうものです。
家族や友人も「心のリハビリ」に利用できます。私は家族に恵まれていたので、そう言えるかもしれませんが、良い人間関係はどのようなものであれ「心のリハビリ」に役立ちます。
他にも、職場や学校、自然、街、文化芸術作品などなど「心のリハビリ」に役立つものはどこにでもあります。
さて、私は「心のリハビリ」という言葉を使います。「心のリハビリ」とは何でしょう?それを多くの人と考えたいのです。
これは病気ではない一般の人々にも通じる哲学だと考えています。
どうしたら心が癒されるのか、人生、世間などに対する心構えを考え、それを抽象化し、哲学として思考し実践することが大切だと思います。
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