檻の中

 青銀色の雨が黒い地面を叩く。
 夜だ。様々な色が跳ね返り混ざっていく。とけて歪んだ光が混ざる。縦の光は青く横の光は赤く。橙色の街灯が夜の奥に続いている。歪んだ光は後ろに流れていく。いや、俺が歪んだ光の上を流れていく。夜の奥に。光の上を。
 どれだけ月を追いかけてバイクを走らせたところで永遠の夜にはいられない。夜は俺を閉じ込めない。その青黒く重いカーテンはいずれ白い太陽に破かれる。結局は出ていかなきゃならない。
 それでもひたすらに走り続ける。
 月を追って走る。終わらない夜の為に走る。風が溶けたバターの様に絡みつく。タンデムシートから伸びる腕に力が入る。開き続けたアクセルはエンジンを唸らせる。漆黒の上に塗った青、その群青の下を走る。戻れない夜の為に。戻りたい夜の為に。
 半月が薄黒い雲の向こうに隠れている。群青色の海が照らされる。唸り続けた鉄の馬が止まる。ひとつ小さな月が消える。海の青が濃くなる。薄黒い月が雲間から顔を出す。
 タンデムシートから伸びた手が離れる。
 俺はその手を引いて砂の丘を越える。

 イカロスが蝋の翼を手に飛び立つとき、どれほどの勇気を必要としただろうか?
 俺があなたに手を伸ばしたときより大きな勇気だっただろうか?あなたが俺を受け入れた時よりも?あなたの手を引いて海に入っていった時より……あなたがもう帰ろうと言って俺の手を放した時より?
 空調の乾いた空気が四方を埋め尽くす。
  溶けだした蝋のように白いものがあなたの肌を滑り落ちる様を見ていた。黒く短いあなたの髪は揺れる事が無い。細い首が脈打ち胸が上下する。
 空が剥がれ落ちるかの様に降る青銀色の雨が窓を叩く。このまま雨が止まなければいい。この時間がずっと続けばいい。青銀色の雨に閉じ込められてそこから出られなくなればいい。何よりも硬く強い鉄格子になってしまえばいい。
 この瞬間が終わらなければいい。
 明日も明後日もくれてやる。
 俺が必要としているのは未来じゃない。俺はあなたと生活をしたいんじゃない。俺はあなたと何処かに行きたい訳でもない。俺はあなたと死にたいのでもない。俺はあなたとこの瞬間に閉じ込められてしまいたいだけだ。この青銀色をした檻の中にいたいだけだ。
 サイドテーブルの上にある俺の時計やあなたの指輪が時間を進めているのならばいっそ楽かも知れない。俺やあなたを縛っているいまこの瞬間、その影をどこか遠くに追いやってしまえばずっとここにいられるんじゃないか?
 窓を叩く雨。群青色の空から剥がれ落ちた青銀色をした雨が窓を叩いては滑り流れていく。
 窓から見下ろしたスクランブル交差点を飾る色とりどりの傘。制服や浴衣のひとたち。たまに走るスーツ姿の大人たち。
 どこかで花火大会が中止になったらしい。この雨じゃ仕方ない。それぞれが手に下げたビニール袋の中には屋台の匂いが詰まっているのだろう。もしかしたら彼らが行く先の部屋がその匂いで満たされることを考えたが、俺には屋台の匂いが思い出せない。
 夏。
 窓の向こうの夏は遠い。
 神社。人いきれ。浴衣。結い上げた髪。首筋に見える後れ毛。薄い汗が光る。花火が打ちあがる。影が濃くなる。顔の陰影が強くなり闇に消える。風が吹く。草の匂い。秋の気配。あなたの薄い香水。空が渇き始めている。乾いた空気が光る。影が濃くなる。影が消える。闇に消える。
 さようなら。
 もう同じ夜はないだろう。この青銀色の雨も檻にはならない。俺もあなたもここから出て行かなきゃならない。俺は腕時計を巻いて。あなたは指輪を嵌めて。影が離れていく。もう重なる事は無い。太陽が切り裂いた夜は墜ちてしまう。俺もあなたも戻らなきゃならない。あなたの髪はいつまでも濡れたままではいられない。
 だけどいまは帰りたい夜だとか戻れない夜だとかを積み重ねて辿りついたこの夜にいる。外は雨だ。いつだって青銀色の雨が降っていた。
 だがその雨は俺を閉じ込めたりしない。時計を止めたりしない。グラスの中の氷は融けていく。もう二度と同じ姿に戻らない。シーツの皺は二度と同じ形にはならない。波は二度と同じ形を繰り返さない。雨は二度と同じ形を落とさない。溶けた翼は二度と羽ばたかない。
 信号か変わる。スクランブル交差点が綺麗になる。車が走り出す。バイクがすり抜けていく。

 青白い砂の丘を越えた先に広がる海。
 白くしなやかな指を絡め取る。
「行こう」
 細い手を引いて歩く。濡れた砂が小さく悲鳴を上げる。靴の先を黒い波が洗う。指が解ける。月が見ている。月を飾る事のできなかった指。
「そうか」
 白い指も腕も動こうとしなかった。黒い波がまた靴の先を洗う。あなたの結われていない長い髪が風に揺れる。短い髪も似合うだろうと思った。
「どうしても行けないか」
 薄紅色のくちびるが幽かに動く。白い手が手首を掴んで引いた。足を洗い損ねた波が啼いた。月が見ている。影が濃くなる。闇に消える。風が吹く。髪が揺れる。潮の匂い。秋の気配。あなたの匂い。空が渇き始めている。乾いた空気が光る。髪が光る。影が濃くなる。影が消える。闇に消える。おかえり。
 夏は嫌いだ。夜を除いて。だがその夜もやがて遠くなる。

 空が剥がれ落ちる様に青銀色の雨が降って窓を叩いている。
 グラスの中の氷が溶けて音を立てた。濡れた服はまだ乾かない。

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