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クジラはどうやって眠るんだろうか、と言う童謡を思い出していた

 海と言うのは波のことだ。
 じゃあ凪の海と言うのは海じゃないのかと言えば、俺個人はそう思う。大きな水たまりだ。巻波の白い泡を見る為に海まで来たが、その日の海は穏やかだったし引き潮だった。
 都会育ちの人間は行けばどうにかなると思っている。下調べも何もしない。手の中にあるモノリスが何かもわかっていない。そこにあるのは美しさだけを切り取られた世界しかない。光に寄せられる虫だ。
 
 だいたい、ほとんどの海が綺麗な事はない。波打ち際にはゴミが浮かんでいる。溜まった微生物が死んで濃厚な潮の匂いを立てる。吸い込んだ肺の中にそれが満ちていく。鼻腔から脳味噌に横たわる微生物の死骸。俺が浮かんでいる。
 波打ち際だけじゃない。海に続く道は不法投棄の連続だ。まるで誰かの人生が置いていかれた様にも見える。冷蔵庫のドアだとか便座だとかテレビだとか、必要とされなくなった誰かの人生や記憶の断片が無造作に置かれている。
 世界が歪んでいるのは死んだ記憶が堆積しているからだ。
 ビニール傘だとか子ども用の自転車だとかを飲み込んだテトラポットを弱々しい波が舐めていく。浮かんでいる白い泡にはどんな記憶が入っているのか俺には想像もつかなかった。
 ただそれが今日じゃない事だけは理解した。
 
 
 
「なにを調べているの」
「お前が学生の頃に炎上したっていう話だよ」
「嘘でしょ」
「あぁ冗談だ、何も調べちゃいない」
 そうだ。俺は何も見ていない。モノリスに触れたところで投げた骨は宇宙船にならない。モノリスは全知全能じゃない。厚さ数億ページの辞書が手の中にある。それを未来と呼べるのはよほどの間抜けだけだろう。
 
 過去を知らせようとしない事と詮索させない事には大きな差があるのだろうか。俺はお前の本名すら知らないし、お前も俺の本名を知らない。それでよいのかも知れない。そうじゃないと得られない未来と言うのがある。
 名前は呪いだ。束縛だ。俺たちが迎えに行く景色がどんなものかは誰にもわからない。そこにお前は存在るのか?いや、俺が存在ない可能性もある。もしくは両方だ。
 過去を断ち切れるとは思わない。影を無くせないようにそんな事は不可能だ。逃げられるものじゃない。それなら別の角度から光を当てて違う影を作り出すだけだ。
 
 
 黒く短い髪を撫でながら考える。
 俺は童貞じゃないしお前も処女じゃない。つまりお前は処女懐胎をしないと言う事だし、それはもしかしたら娼婦だと言う事かも知れない。お前の上を通り過ぎた男の数は知らない。俺の下を潜っていった女の数をお前は知らない。それでいい。西陽は眩しすぎる。後ろに伸びた影は長すぎる。
「ねぇ、もう結婚しようって言わないの」
「言ったって聞きやしないだろ」
「それでも聞きたい」
「いやだね」
 俺は起き上がって煙草に手を伸ばした。煙草の脂汚れで茶色くなり始めた部屋の敷金の事を考えると厭になる。このままここで死ぬか?賃貸の犬小屋に死ぬまで住むのか?冗談じゃあない。だが別に遺すべきものもない。俺たちは神の親でもないしひとの親にもならない。
「俺の子どもを欲しがらないところも好きだよ」
「どうしたの急に?」
「聞きたかったんだろ」
「少し違うけど、悪い気はしない」
 お互いが唯一無二の存在で無いことは最初から分かっている。「お前しかいない」と言うのはその瞬間に於いてのみ真実だ。そう言う虚構を飲み込む事から始まるのが恋愛と言う関係性だ。
 その虚構だとか若さ故の錯覚だとかを少しずつ重ねていくことで実際に特別で、掛け替えの無い関係性と言うものになっていく。
「私はあなたがどうなっても好きだよ」
「どうなっても?」
 別に半身不随になったり若年性認知症になっても好きでいてくれとは思わない。高瀬舟をしてくれるならそんなにありがたい事はない。俺にその覚悟はあるか?コンドームを使わなくなって久しい。子供は要らないが、精巣管を切らないのは何かの未練があるのかも知れない。
「孫に囲まれて死にたいとは思わないのか」
「別に。私みたいなのが人の親になれるとも思わないし、きっと虐待をするから」
「虐待されてたのか?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。グラデーションの濃いところじゃないのは確かだと思うけど」
 お前の過去を知ろうとしない事と詮索しない事の差はどんなものかわからないが、俺の過去を知ろうとしない事と詮索をしない事にも何か理由があるのだろうか。
 別に現在だけでいい。過去は要らない。未来も考えていない。俺たちが遺すべきものは無い。
「厭な親から離れて、反動で幸福な家庭を得ようとして失敗する。その繰り返しだから虐待するの」
「テレビじゃ若い祖母と若い母がガキを殺してるニュースで持ち切りだぜ」
「田舎は昔からそう」
 都会は狂っていると思うが田舎だって十分に狂っているのかも知れない。いや、田舎から出てきた小さな狂気が積もって出来たのが都会だ。狂った果実に手を伸ばしたアダムとイブはどんな顔で孫たちを育てていたんだろう。知る由もない。そんな事は辞書にも聖書にも書いてない。ヒトゲノムには書いあるのかも知れない。
「田舎、どこだっけ」
「海があるところ」
「絞り切れるかよ」
 俺は笑って煙草を灰皿に押し付けた。中指に残った熱が伝わった。
 
 波が影を飲み込んでいる。それが今日かどうかは今もわからない。満ち始めた潮が足先を舐めている。後ろに伸びている影を前に伸ばすだけで世界は変わる。
 俺たちが波に溶けて微生物に分解されて誰かの足を波になって舐める日が、今日じゃない事だけはわかっている。
でもクジラがどうやって眠るか知るのは今日かも知れない。
 
さぁ、行こう。

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