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フラット2.1の夏


はじめに


こんにちは。私は2023年の1月から2024年の1月まで京都からイギリスへと交換留学をしている大学生です。

今回は、そんな私が、留学期間も折り返し地点を迎えようかという夏の3ヶ月を過ごしたフラットのコミュニティについて感じたところを記そうと思います。

まず、私は1月にイギリスに来てから6月までは大学から徒歩30分ほどのA寮で、同じく交換留学生である、それぞれドイツ、フランス、オーストラリア出身の三人と共同生活をしていました。それが、大学から夏の期間は1つを除いて全ての寮を閉鎖するので、その1つの寮(B寮)にしか部屋を用意できないと言われてしまいました。どうやらイギリスにおいて学部生は夏は丸ごと帰省やインターンなどで大学から離れて過ごすのがメジャーなようです。渡航費の問題や奨学金の規定に加え、単純にヨーロッパの夏を楽しみたいという考えもあり帰国する選択肢がなかった私は、しぶしぶ大学近くの家賃も高いB寮へ引っ越すことにしました。

そんなわけでB寮のフラット2.1に入居した私ですが、私と同じように夏に大学近く(もしくはイギリス)から離れるわけにいかない事情を持ったルームメイトが続々と集まってきました。そして、これが何よりこの夏の性格を決定づけるのですが、フラット2.1は私以外のルームメイト5人のうち4人がインド人、1人がインド系カナダ人(1世)という超絶インドフラットだったのです。ちなみに1人は夏の間だけインターンにきている人で、残りは全員が修士課程を修了しかけで、これからイギリスで仕事を探したり博士課程に進むという人でした。

このフラット2.1で過ごす中で、これまでにないスピードでコミュニティに取り込まれていき、所属と承認の感覚を満たされて過ごすというとても良い体験ができたので、そのなかでキーポイントだったと思うことを以下の項目で順番に説明していこうと思います。

1. 同じ釜のインド料理
2. 貸し借りの高速回転

当然これらを持って「インド系コミュニティは〇〇」などと断じるのは浅はかにもほどがあると思いますので、「この夏を私が過ごしたフラットのコミュニティの話」としてお読みいただければと思います。

1. 同じ釜のインド料理

「夏の3ヶ月」と前述したものの実のところ前半の1ヶ月ほど私はヨーロッパ旅行をしていたので2ヶ月程度の期間です。思えば、旅行から帰ってからもうすでコミュニティが出来上がっていることを察し、勝手に気まずく感じていた私が一気にコミュニティの一員になれたのは、帰宅したその日にこの夕食に参加してからだったように思います。

「同じ釜の飯を食った仲間」という言葉がありますが、留学中で同じような形式の住居に住まわれている方や、日本でシェアハウスなどに住まわれている方でも、毎日ルームメイト全員と家族のように食卓を囲んで同じ釜の飯を食うという方は少ないのではないでしょうか。実際、私も、初めの半年を過ごしたフラットでは夕食は別々に取ることが多かったですし、一緒に食べるにしてもそれぞれ別の料理を作って食べる場合も多くありました。

それが、このフラット2.1では、ほぼ毎日、ルームメイトのみならず、どこからかやってくる仲間と机を囲み、5人~10人ほどで、種々のカレーやビリヤニ、お米にチャパティなど同じ釜のインド料理を食べるのです。それも、お米とであってもスプーンなどを使わずにインド流に手で食べます(これがいつになっても新鮮な体験でした)。インド料理以外がこの場につけ入る隙は全くありません。ちなみにここでのインド料理のいくつかはスパイスが強烈で直接胃腸を破壊しにくるもので、後日、日本の辛口のカレールーでカレーを作って食べた時に「辛い」の反対は確かに「甘い」だなと実感したほどでした。

この夕食の場の力は凄まじく、フラットの住人かどうかは関係なく、この夕食に参加しているメンバー = コミュニティのメンバーという感じでした。ではどのようにしてこの夕食がそのような力を持つのでしょうか。もちろん食べながら話したりして仲良くなっていくというのもあるのですが、その答えは、どこから連れてこられていようとも、この夕食に参加したが最後、後述の「貸し借りの高速回転」に巻き込まれていくということに関係すると考えています。

次に進む前に、ここでもう一つ気づいたこととして、料理は(インド出身の)女性がすることになっていたというのがあります。今どき、日本人同士で同年代で集まったとして女性だけが料理をするというのは無いと思いますが、ここでは当然のように料理は女性の役割でした。男性陣ももちろんちょっとした手伝い(野菜を切ったり、カレーが焦げないように混ぜたり)はするのですが、家々で独自のレシピやスパイスの組み合わせが祖母から母、母から娘へ継承されたりもしているようで、むしろ素人がキッチンに入り込む余地はないようなそんな雰囲気がありました。なのでたまに参加していた南米出身の女性なども立ち位置としては男性陣と同じでした。インドも強い男尊女卑があるとは聞きますが、ここでも男尊女卑とまでは行かずとも男女役割分業意識はあるのだなと感じました。

2. 貸し借りの高速回転

さて、次に、私が一番の鍵だと感じた「貸し借りの高速回転」についてです。こ子において貸し借りとは「〇〇には借りがあるんだよね」というような意味での貸し借りです。

皆さんはどうでしょうか、多くの貸し借りの中で暮らしたいでしょうか。私はどちらかといえば、しがらみが多くて嫌と思ってしまうタイプです。しかしこのフラットでは、そんな私からすればまだそう打ち解けていないうち、ほぼ初対面…というくらいから「○○ちょうだい」「○○して?」というように色々な角度で沢山のちょっとしたお願いをされました。そしてそのお願いは別に自分ができないから助けを求めるという感じでもなく、まるでお願いをして借りを作ること自体が目的かのように当然の如く次々とお願いが降ってきます (彼ら彼女らはそれを「借り」とは認識してはいなさそうですが) 。例えば「お茶淹れてくれない?」(淹れている間その人はソファでゆっくりしている) であったり、「〇〇買ってきてくれない?」というメッセージが来る (自分のいる場所もその人のいる場所もスーパーからの距離は変わらない) みたいなものです。もちろん毎回感謝はあるのですが、これが会ってそう日の経たないうちに多発するので、「いや、自分でしろよ」とツッコミが入ってしまいそうな感じです。私は特に断る理由もないのでそのお願いに答え続けました。するとそうしているうちに、そこに、(実際お願いをするかどうかには関係なく)自分も相手にこの程度のお願いをしていい距離感にあるのだという感覚が生まれました。つまり、我々の普通の感覚からすれば「距離感」からそれに応じた「お願い」が生成されるのが、ここにおいては「お願い」から「距離感」が生成されるのです。そしてその「お願い」がまるでそれ自体が目的かのように高回転で繰り返されることで距離感もとても近いものになっていくわけです。

そしてさらにそれが複数人の間で展開されていきます。そうなった時、いつの間にかそこにあるのは貸し借りに基底されたコミュニティの意識であるように思います。つまり、一つ一つの貸し借りを意識して「あの人にはこの前〇〇をやってもらったから△△をしなきゃ」ではなく、「このコミュニティを繋いでいるのはお願いの仕合いによるコミュニケーションなのだからできる限りお願いは聞くし、気兼ねなくお願いをしよう、それがまたコミュニティを繋いでいる」という感覚です。個人間において「お願い」から「距離感」が生成されるように、「複数人の間でのお願いの仕合い」が「その複数人が形成するコミュニティの重力の大きさ」を大きく基底しているという感じだと思っています。この段になるとお願い自体について特に何とも思わなくなります。

こうした意味で、前述の夕食は非常に強力だったと思います。というのも、この夕食自体が当然ながら、食材の準備から計画、調理、配膳、食事中から片付けまで巨大な貸し借りの集合体だからです。なので一度その場に参加してしまえば途端にこのお願いの渦に巻き込まれていきます。これこそが、それぞれ別のものを食べるのではなく、"同じ釜の飯を食べる"ことの本当の意味なのではないかとも思います。

もちろん夕食の場以外にも、買い物に行ったりカフェに行ったり勉強したり普通の友人との間にあるようなことも沢山ありましたが、とにかく仲良くなるまでの速さ
もとてもつもなく早く、またその中で強い所属感と承認感もありました。夏前まで6ヶ月を過ごしたフラットのフラットメイトとも沢山遊んだりしましたが、ある意味みんなそれぞれ個人の線を大切にしていて自分のことは自分で、貸し借りはしっかり精算するような感じでこの夏の2ヶ月のフラットほどの繋がりの深さはありませんでした。

繰り返しますが、ここで大切なのはこうした大量の貸し借りが「これで貸し(借り)はゼロ」「借りを返さなければというプレッシャー」というような意識ではなく、「貸し借りが継続的に行われていることにより生まれる関係を理想的な状態としている、目指している」ような意識の中で行われているということであり、これこそが貸し借りの中にあっても私が全くしんどさを感じなかった理由です。

ここまで書いたものは私の想像と言ってしまえばそうなのですが、ともかくこのコミュニティが上手くいっていたのはそうした何かしら異なる意識のようなものが私以外のメンバーの多くに元から共有されていたからなのだと思います。日本でこれを真似てみてもとてもなかなか上手くいきそうには思えません笑。

最後に

以上記してきたようなことは、日本でも前時代的な田舎の因習などと揶揄されるような、いわゆる古いコミュニティ観と表裏一体であるようにも思いますが、それがこうしたコミュニティの強さの一因だったりするのかもしれません。さらには読んでいてしんどそうと感じた方もいるかもしれません。確かにそうしたコミュニティ観はより閉鎖的で保守的な空間で運用されるとより苦しいものかもしれないですが、フラット2.1のメンバーのように留学してきている若い層によりイギリスの学生寮という場所で活用されることで程よくマイルドになっているのかもしれないです。そのおかげか、人に囲まれていても気を抜けば孤独感が襲ってくる留学生活において、私はこの夏をとても充実して過ごすことができましたし、短期間の共同生活だったにも関わらず、それぞれ別の場所に引っ越した後も続く縁となっています。

以上、まとまりのない文章でしたが、この夏のお話とそこから広げた雑感でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

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