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サボってしまった+ポンコツの自己肯定感

今わたしが見習っているフォロワーさんは、基本的に毎日note更新をされている。体調が悪い時でも、書く時間を前倒しにしたり、できる範囲のことを書くなど、きちんと書くことを自分に課している。

えらいなーすごいなーと思いつつも、実のところわたしもやればできるんじゃん??とも驕っていた。

ところが、11日の夜、インチュニブの眠気に負けて寝落ちしてしまい、目が覚めたら日付が変わっていた。

正直落ち込んだ、note執筆者の方には常識だろうが、更新を継続することでバッジをもらえる。3週間以上書いていたのがおシャカになってしまって、もう投げ出したいくらいに落ち込んだ。

しかし、ここで放棄していては、今までの人生と何ら変わらない。

明確かつ即効性のある見返りが得られないと投げだす。最初から第一人者でなければやる気になれない、下積みはまどろっこしい。

わかりやすい根気のないクズである。こんなのだから今まで何も成し得ることができなかったのだ。

世迷言をほざきながら、もうすぐアラフィフに手が届きそうな年齢になってしまった。しかし、わたしは実際、この10年で明らかに治っている。希死念慮が小さくなったし、怒りのコントロールもできてきた。メンヘラ的言動を表出することもほぼなくなった。薬の手を借りているとはいえ、躁と鬱のバランスも保っている。

正直に言うと、わたしは今からでも変われるのではないか、とうぬぼれている。

これまで脳の障害の発作をすべて『わがまま』だと片づけられ、発作の苦しみへはひたすらに理不尽な怒りをぶつけられた。特に母から。本当にクソだなあのクソアマ。

そうではない、悪いのは脳だ、と診断をもらってから圧倒的に症状が楽になった。少ない成功体験を積み重ねて自尊心を上げたのも大きい。

そう、成功体験である。

自尊心の高揚に覿面な効果をもたらすのは、圧倒的な、あるいは些細な成功体験である。

自分は場所塞ぎでも穀潰しでも環境破壊生物でもないと実感できるし、血の繋がっていない人にとって自分は避妊の失敗作でも生まれるべきでなかった生命でもないと、メッセージを受け取ることができる。

noteもその一環である。有用なインチュニブ服用メモ、また無為な日記等を継続することで、自己評価を少しでも高めることができるかもしれない。 有用な情報を見た方のお役に立てるかもしれない。

それはとても幸せなことだ。

先日は言わなかったが、わたしは『情けは人の為ならず』ということわざが大好きだ。そこまで見返りが欲しいわけでもないのたが、わたしの些細な親切が循環してこの世がよくなるのを想像すると楽しい。

インチュニブが効いてきて少し支離滅裂になってきた。完全に落ちる前に退散することにする。明日はラリる前に書きたい…(目標)

いただいたサポートをガチャに費やすことはしません。自分の血肉にするよう約束いたします。