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人の心に届く文章を書くためには、体を使って、五感を目覚めさせよ!

他人の書いた文章を読むと、その書き手のいろんなことに察しがつくもの。性別、世代、美醜、性格の良し悪し。ユーモアのあるなし。どのていどモテてきたか、モテずにきたか。貧富。趣味趣向。都市に暮らしているか、田舎暮らしか。外向的か内向的か。会社人間か自営業か。組織に属している人ならばどのていど責任を負っているのか。はたまた、どんなときにしあわせを感じるのか。その人がどのくらいどういう系統の本を読んできたか。アニメを好きか、否か。どんな系統の映画をどのくらい観たか。はたまた(ときには)書き手が情緒不安定であるのを見れば、その原因がおそらく書き手が糖尿病患者であること、すなわち高血圧と、血糖値の激しい乱高下さえ文章から察しがついてしまう。そこが、他人の文章を読むおもしろさのひとつですね。



ぼくがコドモの頃から長年小説読みを続けてきたなかで気づいたこと。それはたとえアマチュアの書き手であろうと、手を使い、体を動かし、五感を使って暮らしている人の書く文章には描写や説明に具体性があって、おのずと説得性があること。たとえば、毎日料理を作っている人。縫製職人。衣服のお直し職人。ミュージシャン。画家。デザイナー。マンガ家。工芸職人。育児中のおかあさん。植物を育てている人。農業従事者。園芸家。整体師。按摩、マッサージ、指圧師。看護師。獣医。外科医。そのほか挙げてゆけばきりがありません。


逆に言えば、たとえ小説家であっても、(パソコンのキーボードを叩く以外には)手を使わず、体を使わないで暮らしている人の書く文章は、どこか危なっかしい。なぜなら、かれらは頭のなかの世界に閉じこもって、観念操作で人を驚かせてやろうというようなことばかり考えるようになるから。大学の先生が書く本もおもしろくないものが多い。他方、カントは毎日散歩した。大江健三郎は水泳を欠かさなかった。村上春樹はジョギングに明け暮れる。体を使っている人の書く文章は説得性があるもの。


もっとも、異論の声もあるかもしれない、「じゃあ三島由紀夫はボディビル以前/以降で文体が違うかい?」とかね。これはなかなかの難問で、十代の頃の浪漫派文体からは多少は離れただろうし、また売れっ子作家になってからはエンターテイメント小説にも手を染めた。したがって厳密に言えば、三島の文体は多少は変化したと言えないこともない。しかし、大局的に見れば、三島のロマンティックで論理的な文体美意識は生涯ほぼ変わってないんじゃないかしらん? つまり三島はあれだけ体を鍛えてなお、生涯観念の世界から抜け出すことができなかった。三島自身それをわかっていた。つまり、三島は自分がけっして現実世間を描けないことに、ひそかに劣等感を持っていた。だから三島はベストセラー作家・松本清張の、どんな文章にも現実のリアリティが宿る文才に激しく嫉妬し、文学界の権力者たる三島の存命中、松本清張はあらゆる文学全集に入ることができなかった。(なお、これについては橋本治著『三島由紀夫とはなにもんだったのか?』新潮社刊に教えられた。)つまり三島は五感を使えず、生身の人たちをありのままに描くことができなかった。また、三島は鮨屋に入るとトロだけを注文して、トロばかりを喰って喰って喰いまくって、他のネタには見向きもしなかった。そして高笑いして勘定を払い鮨屋を後にした。もちろんグルメはそんな三島を憐れむ。



「言葉の魔術師」という讃辞の言葉がある。(三島を例外として、たいていは)そんなふうに褒められる人とて、語彙が豊富で、修辞が巧みで、読者がその文章を読むだけでその世界に引き込まれるような書き手であったとしても、実はその魔術は、その書き手が五感を使って生きている人だからこそ使えるもの。もちろん体を動かさないと、五感は限定的にしか使えない。


言葉って不思議なもの。体を使わないと言葉を巧く使えるようにならないなんて。


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