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止観の念仏

現在では、念仏と言えば

南無阿弥陀仏

と唱えて、阿弥陀如来の救いを求める、と考える人が、大部分です。

しかし、6世紀に天台大師が説いた「摩訶止観」の念仏は、禅定の境地の一つで

「坐禅のなかにおいて、忽然として、諸仏の功徳の無量無辺不可思議なることを思惟し、信敬し、慚愧す。深く慕仰を生じ、諸仏に大神力あり、大智慧あり、大福徳あり、大相好あることを存想す。かくのごとき相好は此の功徳より生じ、かくのごとき相好は彼の功徳より生じ、かくのごとき相好は此のごとき福徳あり、かくのごとき相好は彼のごとき福徳あり、相の体を知り、相の果を知り、相の業を知る。」

と説いています。この趣旨は

坐禅中に、有る機会に突然、仏の功徳は、私達の知恵では計り知ることができない、広く深いモノであることを思惟し、信じ敬い、自分の至らなさを深く反省するようになる。仏を深く慕って仰ぎ見て、諸々の仏に大いなる力、大きな智慧、大いなる福徳、そしてこれを示す姿(=相好)があることを想う。この相好は色々な功徳を示すために生まれ、この相好は色々の福徳を伝えてくれる。仏の姿の構造(=体)、その結果、そして行い(=業)を知る。

が瞑想中の心に起こると言うことです。

さてここで、6世紀の環境を考えて見ましょう。私達の常識とは、以下の点で異なっています。

  • 学校教育がない

  • 紙も貴重品

と言う状況です。そこでは

抽象的な概念操作や伝達は私達と違う

のです。例えば

慈悲

を伝えるときに、現在の私達なら、多くのAV教材で、苦しんでいる子達とそれへの救いを見せ、更に道徳の教科書などで教えるでしょう。特に、多くの人は、数字で扱えるでしょう。数学では『無限大』という便利な道具があります。

話を戻して、6世紀の状況で、『慈悲』を伝えるには、どうしたらよいでしょう。抽象的な概念の扱いが、私達のようになれていません。どこまでも具体的な動きの積み重ねです。そこで一つの答えは

慈悲を行う仏・菩薩になりきる

ことです。『想う』のではなく『念じる』ことで、一体化します。

もう一つの『慈悲』の伝え方は

象徴的な姿や事物

で伝えることです。例えば

仏の手の指の間には膜がある
これは
全ての衆生を漏らさず救う

を示します。千手観音の多くの手や持ち物も、多数の人への救いを示しています。

この念仏の境界をえる。その上で、色々な姿や功徳をて識別する。それをび、その境地を楽しむ。それに深く入るのを、一心の功徳が具わります。

さて、このような仏の姿を見るのは、正しい信仰の上で観ないといけません。神通力などの力で見るのでなく、正しい信仰で仏の力と感応し

観るだけでなく仏の力で見せて頂く

と言う境地ではないかと思います。

紙が貴重で、本や絵が貴重品の時代は

念仏で仏の姿を観る

ことが大事な修行でした。

なお、上で書いた『覚観喜楽そして一心』は、数息観などの禅定修行では、色界の初禅の境地で、その上で色々なモノを否定し尽くすことで、本当の悟りに至ります。

しかしながら、念仏の修行で、仏と感応し、自らの中にある仏を実感すれば、悟りの道に入るでしょう。

私も、数息の体験で、すべてが滅していったとき

最後には仏の力

を観じました。

このように

正しい念仏

は修行の王道だと想います。


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