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岩波文庫青672-1『学問の方法』解読

まえがき

ヴィーコの『学問の方法』は、18世紀の頭の講演だが、現在で生きる内容が多い。そこで、昔作った読書メモを皆さんの参考にして欲しい。

0.成立の由来と時代背景

 この本は、

 『われらの時代の学問方法について
     ナポリ王国王立大学 雄弁術勅任教授 ジャンバッティスタ・ヴィーコ
      芸文を学ぶ青年に向けて 講演 1708年10月18日』 

の記録である。

この講演は“神聖ローマ皇帝カール六世と同一人物である、オーストリア皇帝カール三世”に捧げられている。当時ナポリはオーストリア軍により占領中であり、ナポリ大学は1708年の開講式を特別に公開し、恭順の証として皇帝に奉げられたものである。

更に色々な面で、ローマカソリック教会の影響を大きく受けている。このように、現在とは異なっている大学での講演という前提で読む必要がある。

また、17世紀半ばのデカルトの論理的思考法が、かなり強力な影響を及ぼしており、ヴィーコは、このデカルト主義者を意識して、この講演を行っている。ここでデカルトの思考法を簡単に復習する。

 0.1デカルトの思考方法

デカルトは、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の四つの規則を定めた。

1.       明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない。(明証)2.       考える問題を、できるだけ小さい部分にわける。(分析)
3.       最も単純なものから始めて、複雑なものに達する。(総合)
4.       何も見落とさなかったか、全てを見直す。(枚挙)

このために、幼児のときから無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理にいたるために、方法的懐疑で一度全てのものを疑う。方法的懐疑の特徴は以下の2つの点である。

1.懐疑を抱くことに本人が意識的・その操作が仮定的であることを意識する
2.少しでも疑わしければ完全に排除する

この強力な方法的懐疑を、何も疑う余地がなくなるまで続ける。まず、肉体の与える感覚は誤ることがあることから偽とする。さらに、正しいと思っても、後になって間違っていると気づくことがあることから、数学的な結果(2+3=5のような)も排除する。等等・・・

こうして、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられると、純粋な精神だけが残り、デカルトは、「私がこのようにすべては偽であると考えている間、その私自身はなにものかでなければならない。」と言う考えに至り、これだけは真であるといえることを発見する。有名な「私は考える、ゆえに私はある。」Je pense, donc je suis(フランス語)である。(ちなみに、「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スムは、ラテン語訳である。)

コギト命題は、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。

そして「我思う、ゆえに我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理判定の一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」、とする。(明晰判明の規則)ここから、各種議論を展開する。

その他、座標系を用いた解析幾何学等を使って、正確な推論をデカルト主義者は進めた。

以下で、『学問の方法』にもどり各章について述べる。

1.『講演の構成』について

まず、ヴィーコは彼が崇敬する、フランシス・ベイコンの『学問の進歩』における

人間の知恵をあらゆる面で完全なものとするために、
これまで獲得したものに加えて、
新しい諸学芸を指摘し、
今まで獲得しているものをどの程度まで発展させるか

と言う活動を取り上げる。しかしヴィーコは、

人間に知られるべく容認されていることは、
人間自体と同じく有限で不完全である。

と言う立場に立っている。人間の不完全性の認識は、この本の根底を貫いている。そして、

われわれの時代と、ギリシャ・ローマの古代と比較すると、
知識の利得と損失は同量である。
古代人が知らないことがわれわれには顕わで、
一方古代人が軽蔑した分野に注力したが、
われわれが全く知らないことが、
古代人に知られていた。
古代人はわれわれが省みない分野に打ち込んでいたのである。」

の発想で、学問の方法を見直そうと企てる。

ここで、彼が言いたいのは、“学問の方法”で進歩がない限り、人間の得る知識の総量は変わらないと言うことである。従って、学問の方法の見直しが重要になる。彼の“問題提起”は、以下のとおりである。

学問方法においてわれわれのものと古代人のもの、
いずれがより正しくより良いのであろうか?」

このため、ヴィーコは両方の利点と不都合について例を挙げて比較し、(1709年当時の)現状の不都合を明確化し、不都合に関して、回避可能なものには手段を論じ、回避不可能なもので古代人の不都合と相殺しているものを明確にすることで、古代人より全体として優位になるようにする。

このような立場で、ギリシャ・ローマの古代と、当時の学問方法を論じた例はないということを、ヴィーコは強調する。

ヴィーコは、学問方法を一般に以下の3つから成り立つとした。

1.道具・・・学問の順序を含む

クリティカ(=以下デカルト的論理とも書く)、解析、機械学(力学)、化学と薬学、顕微鏡、望遠鏡等

2.補助手段

賢慮(深慮よりはじめて見える見識:技芸で導かれない:プロネーシス=実践知)の技法集、模範となる傑作、印刷、大学等 

3.目的    真理の追求

2.『諸科学の道具から得られるわれわれの学問方法の利点』

 ヴィーコは、以下のように当時の利点をまず明確にする。

また学問の補助手段の利点は、以下のとおりである。

3.『新しいクリティカの不都合』

この章は、ヴィーコの主張の中心部であり、クリティカ(=デカルト的論理)の弊害を述べている。色々な論点があるので整理すると、以下のようになる。
<結論>
 クリティカは、想像力・記憶力を鍛え常識が十分備わった後に、教えるべきである。真らしいことを捨てることなく、虚偽の判断ができるように全体的な学芸を学び、その後自身の判断力で判断すべきである。特に、検討に当たっては、ものごとの両面で議論できるようにするべきである。
<理由>
1.  クリティカでは、虚偽の疑いのあるものをすべて排除してしまう。青年たちはできるだけ早く共通感覚[常識]を育成すべきだが、共通感覚は真理でなく真らしいもから生まれる。クリティカはこれを排除してしまう。
2. クリティカは物体的イメージを超えた抽象的なところで働く。しかし、少年たちは想像力と記憶力を鍛えないといけない。古代人の論理は、幾何学であったので、図形による想像力が守られている。
3.   論点の発見であるトピカが軽視される。トピカは、クリティカより先に教育させるべきである。トピカの訓練があると、色々な観点から議論ができる。
4.   クリティカはじっくり考えるため、雄弁の即応性に対応できない。
 
(注) トピカとは論点を発見する術で、狭い意味では以下に示す3段論法の中名辞を示す。
 
   全てのAはB である   例:全ての人間は、死ぬものである
   C はAである       ソクラテスは、人間である
 ―――――――――――――――――――――――――――――――-
  故にC はBである。     故に、ソクラテスは死ぬ
 
上記Aに相当するものを中名辞と呼ぶ。このような媒介概念が、多くあればそれだけ説得力のある議論ができる。一般の聞き手は、自分の理解できるトピカで説得されたとき、良く納得する。従って、説得する場合は相手に応じて、トピカを柔軟に切り替える能力が必要である。クリティカによる一本の連鎖推理よりも、百の三段論法のほうが、説得力がある。
 
上記1.の補足
真理は一つであり、真らしい物は多くあり、虚偽は無限にある。したがって、絶対の真理に執着した場合は、豊かな真らしいものを逃してしまう。しかし時々誤る危険性は、覚悟しないといけない。

真らしいものの重視は、ヴィーコの一番言いたいことで、前述の学問の目的にも対応している。また、クリティカの記号思考は想像力を殺す欠点がある。
 
 X=Y+Z・・・これには何のイメージもない。
   しかし、図による思考は想像力を引き出す

 なお、共通感覚の育成として、最初は聴き、共通感覚ができてから議論するようになるべきであると、しっかりとした方法を示している。
 
学習中にものごとについて討議する人のように軽率にならず、しかも教師によって教えられないなら何事も真理と思わないような悪い意味の敬虔にならないように用心すべき。

この点古代人は優れている。ピタゴラスの徒は5年間ずっと沈黙を守った。また一般に哲学の新参者の任務は聴くことであった。聴講生の語源はこれである。

4.『幾何学の方法が自然学に導入されることによる不具合』

この部分は科学哲学の観点で重要である。図で示すと下のようになる。

この指摘は、現在にも通じるが、論理的に正しい展開だけに執着すると、前提の議論がおろそかになる。古代の自然学は常に現実と対応したチェックしながら議論していた。このような姿勢がなくなったことを、ヴィーコは警告している。この警告は、現在にも通じる。某カルト教団の信者に理工系一流大学生が多いのは、前提を疑わずに形式的に正しい展開に、だまされる人間が多かったからである。

次に、もう一つの欠点は、論理の厳密さを重視するため類推を拒否することである。発想法の一つの“等価変換論”は、類推の技法であることからも解るように、上手な類推は発想を豊かにし、説明を上手にする。
但し、類推は完全に同じものの関係でないだけに、細部での違いは生じる。

もう一つヴィーコの主張は、公理からの演繹でなく、現実からの帰納を重視すべきと言うことである。 

5.『解析について(機械学との関連における)』

ここでのヴィーコの主張は、推論における記号的処理のみでの結論の怖さである。現在ならば、CADやコンピュータシミュレーション結果を無条件に信じることの危険性である。

6.『われわれの学問方法は医事にいかなる不都合をもたらすか』

この部分ではまず、「われわれは、病気の本質を追及しようとしているが必ずしも成功しない。」という現状認識が必要である。このような姿勢の弊害は、以下のとおりである。

・   微妙な徴候を無視する
・   将来の予測と予防が弱い
・   経験的な知恵でも学問的に説明できなければ排除する

このような傾向は、現在も残っている。

例1:足が痛いといった患者に「レントゲン写真で骨に異常がないから、痛みはないはず。」と診断する整形外科医は何人もいる。

例2:地震の予知に対する、『電波の飛び方の異常等』の種々の経験的手法は、学問的根拠がないので受け入れられない。

これに対する、ヴィーコの答えは、現在でも有効である。(p55から引用)

個別的なものを追求しよう。また連鎖推理をそれがこの分野でも役に立つ以上に用いるのはやめて、主として帰納法に依拠してやっていこう。・・・・・・
現在で言えば、現場主義

近代人は解明することにかけてはよりすぐれているのであるから、彼らとともに原因を究明しよう。しかしまた徴候とか診断とかも重視しよう。・・・・
現在で言えば敏感にナゼを追求

7.『われわれの学問方法がそれの目的と関連して道徳と政治の学および雄弁にもたらす不都合』

ここでは、多くのことが述べられている。大きく分けると以下のようになる。

・   良い意味でのエリート教育が出来ていない。
       国事・道徳などの無視、一般人民に対する説明能力を軽視
・   知恵ある者、学識あるが実用知にかける者、狡猾な者、愚者の区別

後者から説明すると以下のようになる。

この図が示しているように、知識だけ持っていて実用知に欠ける者は、でこぼこの現実を、自分の『知識的な直線定規』で裁断しようとする。

また、一般の人々の行動は、感情や共通感覚に左右されると言うことを理解できていない。
 
これは、政治を行う者にとって特に重要である。

「君公足らんとする者は単にものごとが真実で正しくあるように心がけるだけでなく、そのように見えるようにも心がけなければならない。」

このように言うと、民衆を操るマキャベリストのように聞こえるかもしれないが、ヴィーコの主張は、『現実性をわきまえた、哲学者になれ』と言うことである。また古代では、『論理学・自然学・倫理学と言う3つの哲学』は雄弁に上手く適合されたが、現在はばらばらになっている。この主張は、現在でも『自分の専門に閉じこもり、お客様の立場を考えずに、良いものが売れないとおかしい。』と言っている、技術者などに聞かせたい。更に、ヴィーコは説得を、以下の哲学と雄弁の2つの面で考える。

これらを、実行する人間は、道徳的に優れ、国事のことを常に考えるようにしなければならない。このような、分野は自然科学と比べてあいまいで要素があるので、研究対象から外されている。
この部分は、科学で言うところの『物理学帝国主義』に対する痛烈な批判である。何度も繰り返すが、『真らしきもの中に実用的な知が多くあり、活用すべきである。』がヴィーコの主張である。
更に、「自然科学や機械の専門家以外は、このような厳密な論理に長期にわずらうべきではない。幾何学は、図形を用いて創造力を育てる仕方で進めるもののほうこそ学習すべきである。 

「トピカの修練を積み、自然、人間、国事について賛否両論において自由自在かつ鮮明な議論様式で討究できるようにする。古代人より、知識で優れ知恵・雄弁でも肩を並べるようにならなければならない。」

と言うのがヴィーコの主張であり、現在でも思い当たる点は多い。

8.『詩作について』

詩の作成は、天才のみの仕事とヴィーコは割り切っている。従って、子供のときに厳密なデカルト的論理に縛られることは、想像力を阻害する欠点があるが、有能な詩人にとっては、論理学や自然学は類推の材料を与え、虚構を構築するのに有効と評価している。
この部分は逆説的に、デカルト的論理の誤りやすさを、皮肉っているのかもしれない。

9.『キリスト教神学について』

この章は、キリスト教が強い力を持っている、18世紀の西洋社会を考慮する必要がある。一神教的な全知全能の神への崇敬は、ヴィーコ及びデカルトに共通のものである。従って、現在の日本人には受け入れがたい部分があることを前提に、この章を理解する必要がある。
まず、ヴィーコは、ギリシャ・ローマの神とキリスト教の対応を以下のように比較する。

彼の論法では、“真らしきもの”を重視しているが、ここでは絶対的な“神の力=真実”を基盤とした、学問の展開を示している。現在でも、欧米の大学では、

「神学部の教授は他の全ての学問分野に対し発言権を持つ」

と聞く。一神教的な神の力で、倫理道徳の絶対的な基準のよりどころが定まっている。
 
ここまでで、学問の道具に関する議論を終える。続いて学問の補助手段について述べる。
 

10.『賢慮に属する諸主題にについて技法集が編まれていることの不都合』

 これは、言い換えると

「実用的な知恵の働きに関する種々のマニュアルが存在することの不具合」

となる。

ヴィーコの主張は

「現実は多様に分岐しており、どれほど広範囲に検討しても十分とはいえない。したがって技法集は最低限の方向付けを行うべきで、哲学を通して最善の本性の観照へ向かうようにすべきである。」

となる。
これは、現在ではもっと症状が進んでいる。マニュアルは参考にし、何故それを行わないといけないか、本質を追求することは、現在でこそ重要である。 

11.『法賢慮について』

この部分は、上記10章の具体例として取り上げている。なお、ヴィーコは1724年にローマ市民法の教授に応募していることからも解るように、法律については専門家と自負していたようである。この章は、一番多く39ページと全体の約1/4を占めているので、詳細に立ち入ることは出来ないが、以下の点は注目すべきである。
・   歴史的な環境を踏まえて、当時の法制度について議論する姿勢
『ローマ法のそれぞれについて、必ずやそれらすべての基底に存在しているに相違ない何らかの公共的理由を探し出さなければならない。』
  >ヴィーコが社会学や近代歴史学の祖と言われる理由の一つはここにある
・   法律の尊厳を守る事を重視し、現実対応は賢慮で対応した
 >現在の日本国憲法第9条の運用がまさにこの例であろう
・   法律を作る立場と、法を使って実際の裁判に関わる能力の分離
 >現在の大学の法学部はどちらを向いているのであろうか
・   法律を国家理論に基づいて解釈すべき
 > 哲学と実用知の融合、基本原則を踏まえた運用は、これまでと同じ

12.『芸術作品の最良の手本について』

芸術作品の模範がある場合は、凡人がまねるには有効であるが、天才の創造性を壊す可能性を指摘している。これは、

一般向け画一的教育が天才を損なう

とすれば、現在の問題点でもある。 

13.『印刷について』

ここでは、グーテンベルグ革命を踏まえて、古代では手書きで筆写した本が、当時では大量に印刷されている。手書き筆写は、労力がかかるため、より抜かれた本しか流通・保存されなかったが、印刷ははるかに多くの書物を流通させている。従って、容易に多くの知識を利用できるが、玉石混交になる。また、筆写の作業中に熟慮した効果がなくなっている。などの悪影響がある。
この対策として、本を読む場合は、まずは“評価の定まった古典”を読むべきである。

これは、現在ではもっと悪化している。Web上に大量の情報が存在し、マウスのコピー&ペーストで簡単に自分の文章を作れる。Web 上には海外の大学の先端研究から、個人の思い込みによる情報まで、まさに玉石混交である。しかも、手書きノート作成技能もどんどん失われている。

14.『大学について』

ここでの主張は以下のとおりである。
個人で全てのことを知ることは不可能なほど、科学技術が広く深くなった現状では、各分野の専門家をそろえた大学は必須である。しかしながら、大学の教育は個別に行われるので、古代の哲学者のように、教説・振る舞い・表現の一貫性がなくなっている。このため、学生たちは部分的にはきわめて博識であっても、知恵の華をなすべき全体においては首尾一貫していない。このような不都合は、大学の教授たちが宗教と政治に適合した全学問の統一の体系を作ることが望ましい。
これは、現在の専門分化の弊害でまだ継続している。ただし、宗教政治で統合するのか、総合的な学問体系を別途考えるべきか、現在の課題である。村上陽一郎先生達の言うところの“リベラルアーツ”の議論が一つの答えかもしれない。

15.『講演の結論』

この章は、結論とは書いているが、単独で新しいことを述べている。 
まず、p146の以下の文章は現在にも通じる。

青年は、あらゆる学問領域を修めないかぎり、
雄弁術研究は禁止すべきである

ただし、これでは失敗を恐れて何もいえなくなるのではと言う意見には下記がある。

必要ならば大きな危険を犯すことも高潔である

最後に専門家と総合の立場についてp151に、以下のとおり述べている。
 
このような全般的な判断は、みなほどほどに研究した人でなければ、誰も正しく公言することができないような種類のものである。
一つの学問に全精神を傾注し、全生命を費やす人が、その学問が他のあらゆるものより優っており、いかなる点においても最良であるとみなし、他のどんなことにも応用するのをわれわれは見かけるが、そういう事態になるのは、おそらく、われわれ自身およびわれわれの手にしているものごとから好ましいものを作り上げようとする、われわれの本性の弱さによってなのである。

この意見は、専門馬鹿に対する一つの厳しい意見である。なお、このためには2つの専門分野で深みを持つ、いわゆるΠ型人材育成が一つの答えである。

おわりに

ヴィーコが対立した、デカルトの科学的な思考法は、現在でも大きく影響している。その欠点である

確からしいモノの見落とし

への反省は、現在こそ必要だろう。

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