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糾弾する人が見ない人権

前に

見えないモノに配慮できない|鈴木良実|note

を書きましたが、この問題に関連して、色々と思いつくことがあり、もう少し書いてみます。一つは、先ほどつぶやいた

直接的な因果関係が見えるが
間接的な縁や報はみない

と言う人々の増加です。この問題は、学校教育の充実で

多くのことが教科書で説明できる

状態になったので、逆に

教科書知識で説明できないモノを観なくなった

弊害です。

しかし、この問題は、もっと昔からあったように思います。

戦前から、マルクスの説いた経済学は、色々な知見を、知識層に与えました。その結果

地主などの富裕層は悪人

と言う価値観が出てきました。その裏で

知識人の一部にある罪悪感

が生じています。これはマルクス主義の追求が顕著ですが、それ以外にもあります。例えば、私が中学の国語で、ケストナーの作品を読んだとき

貧しい人々のことが思いやれない子が
豊かな家に生まれるのは間違っている

と言う主旨の文章がありました。これは、確かに一理あります。

しかし、ここで

発達障害の子

について考えると、別の見方が出ないでしょうか?

他人を思いやる力が欠如

これが罪になるのでしょうか?また、それまでの育ちで、自分たちの豊かな生活しか知らない子達が、貧しい人の生活を、思いやれないこともあるでしょう。これは、育ちの問題であり、人格的欠陥と言えるのでしょうか?

今までこうした

思いやりができない人

を糾弾してきた「人権的」な人は少なくありません。こうした糾弾は、ある意味で

排除の思想

までつながっていくのです。

またこうした糾弾や、無言の圧力によって

罪悪感を背負って生活

している若い人もいました。このような人が

過激な思想
カルト宗教

にはまる例もあります。

こうした観点からの議論も必要かと思います。こうした

追求される人の人権

も、もう少し尊重されるべきでしょう。

罪悪感については、以下のNOTEも参考にしてください。

昭和の罪悪感について|鈴木良実|note

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