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覚意三昧をテトラレンマで見る

天台の摩訶止観に

覚意三昧

と言う修行法があります。ここで、「覚」は、事物を明らかにし、真理を悟ることで、「意」は、心数つまり、心で起こる色々の働きを言います。「三昧」は、雑念を離れて心を一つの対象に集中し、散乱しない状態をいいます。

さて、こうした「意」の働きが起こる時に、しっかり観察していると、動き転じるモノの根源・終末・来た所・去る所を見るというものでは、ありません。そこで「覚意」と名付けます。諸々の心の働きは、無数にあります。そこで、諸法の源として、それを造る「意」を切り口にします。ここで、心と意そして識のイメージを、明らかにしておきましょう。

色(外形)・声・香り・味・触そして法の六境を、覚知して木石でなく、感情や想念のあると覚知するのが心です。次に、心が数え上げるなどの思考を行うのが意です。こうして、区別し認識するのが識の働きです。

但し、こうした区別に執着すると、覚から遠ざかります。この三つは、別の名前がありますが、一つの性なのです。

この関係を、摩訶止観では

  • 心の中に意あるにあらず意あらざるにあらず

  • 心の中に識あるにあらず識あらざるにあらず

  • 意の中に心あるにあらず心あらざるにあらず

  • 意の中に識あるにあらず識あらざるにあらず

  • 識の中に意あるにあらず意あらざるにあらず

  • 識の中に心あるにあらず心あらざるにあらず

と説いています。つまり、明確な分離関係や包含関係ではないが、それぞれが関わりあって、一つのことを成しています。

さて、上で書いた

~に非ず ~~に非あらざるに非ず

は、テトラレンマの第3の形

3.Aでなく、非Aでない

です。上で書いた、明確な分離関係や包含関係は

1.Aである  2.非Aである

だけしか考えないロゴスの世界の発想です。

しかしながら、私達の「心・意・識」は、相互に働きかけ、お互いに依存しながら、しかも独立しています。そこで三つの名を立てますが、一つの性とします。

こうした、両者否定の、第三レンマを考えることは、現実に動いたり、環境と交流のある場合には、常に変化する状況を想像すると

Aでなく、しかも非Aでもない

と言う状況もあるでしょう。

こうして、今まで私達を縛っていた

西洋文明的なロゴス(論理)

から、自由になって「仏の智慧」に近づくのが、瞑想の一つの目的です。

#テトラレンマ #覚意三昧 #摩訶止観

今まで書いたnoteを参考にして頂ければ幸いです。
仏教の瞑想の実践|鈴木良実 (note.com)
テトラレンマで悟りを知る|鈴木良実 (note.com)


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