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テトラレンマで悟りを知る

天台大師の『摩訶止観』では『中道第一義』を実感する『円頓止観』を説いています。『止観』は聞いたことがなくても、『坐禅』を知っている人は多いでしょう。『坐禅』は『止観』の主な修行方法です。

さて、岩波文庫の『摩訶止観』では、臨済宗や曹洞宗などの、禅宗の教えと違って

天台の止観は細かく教えている

と説明しています。

例えば、禅定の境地も

数息、不浄、慈心、因縁、念仏

の五門に分けて、詳しく説明しています。この禅定の境地について、読んでいくと

捨てる

ことが繰り返し出てきます。そして、最後には

非想非非想
想うに非ず 想わざるに非ず

と言う

全ての否定

の境地になります。

これは、今まで私達が学んできた、西洋的な論理では、理解出来ない

絶対的な否定

です。今までの発想なら

想う vs 想わない
想 vs 非想  

と言う図式になり、これで十分だと考えていました。

しかし、1人で瞑想し

「想うを」捨て
「想わない」も捨てる

と言う

何もない境地

を感じると、逆に

それでもある仏の力

を感じてしまいました。

これを、京都学派の哲学者(京大名誉教授)、山口得立(やまぐち とくりゅう)の「テトラレンマ」の発想で考えます。これは、中論を体系化した、2世紀にインドで生まれた龍樹が使用した「論理的」な考え方です。

テトラレンマの発想では以下の4つのレンマで考えます。

  1. Aである

  2. 非Aである

  3. Aでなく、非Aでない

  4. Aであり、かつ非Aである

西洋文明の論理は、上記の1.と2.の両者で、その中間がないと考えます。これを「排中律」と言います。

しかしながら、現実社会の多様性に対応して、3.のような中間的なモノを考える必要があります。西洋文明でも、アルフレッド・コージヴスキーの「
非アリストテレス論理学」などが提案されています。このように考えると、Aか非Aの択一の中間を考えるのは、自然なことだと思います。『中』の教えも、その線に乗っています。

しかしながら、上で書いた『非想非非想』の発想は、上記3.の形ですが

絶対的に否定するので
その間を拓く

ことはできません。今までの考えを捨て

全てを無にする

世界に浸ります。

こうした、世界の厳しさを感じたとき

全てを作る仏の力を実感する

のが悟りではないかと思いました。ここまで来ると

仏の大神通力をもって

全てが救われる世界

を造る。このように考えて、法華経を読むと

人を見て法を説く
種々の方便を尽くす

仏の智慧が見えてきます。

一方、一つ一つの救いを実践する『菩薩行』なら

無数の現実に合わせて中を拓く

対応があると思います。多様性に対して、個別に対応する『菩薩』それら全てを造る『如来』の力、このような解釈はいかがでしょう。

こうした、全体像を描き、皆のために考える発想こそ、現在に必要だと思います。

#大乗仏教 #悟り #テトラレンマ


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