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仏教の瞑想の実践【改訂版】

1.瞑想の目的

皆さんは、坐禅や瞑想に、何を求めているのでしょう?色々な想いで座る人もあれば、何も考えずただ座る、と言う人もいるでしょう。

しかし、天台大師智顗が『摩訶止観』で説いた『円頓止観』は、法華経の描いた

私達が仏の力を持つ

を実感しようとします。つまり

自分の心にある仏の智慧

を見いだす為の止観です。もう一歩進むと

仏の人格を自分に実現

しようとします。

こうした、目的を持って行う瞑想には

思い込みでそれらしきモノを観る

危険性がありますが、変なモノを掴む危険性は少なくなります。禅や瞑想を自己流で行うと、いわゆる『魔境』という現象になり、カルト的なモノに入る可能性があります。

2.仏の智慧とは

さて、仏の智慧とは、どのようなモノでしょう。法華経に従えば

全ての世界は、仏が責任を持っている
その中の一人一人の人間を吾子のように観る

という、複雑な現実の全てを観て、さらに一人一人を、自分の子供として

個別の状況をキチンと見て多様性に対応

する智慧です。これは、数人の子供なら、多くの親御さんが行っているでしょう。しかし、それを全衆生に及ぼすのが、仏の智慧です。

西洋文明では、こうした多数の大衆を扱うとき、平均値などの抽象的なモノで考えます。その場合に『無視されるモノ』が出てくるのです。これをせずに、一人一人を活かしながら、多数の衆生を見る。これこそ不可思議な仏の力です。

3.瞑想の実践

瞑想を、天台大師達は、『禅』でなく『止観』、と表現しています。

  • 止:一つに集中する

  • 観:その世界と一体化して観る

単に集中するだけではなく、その世界に浸り自分で体感する、これを止観と言います。

さて、止観で観るべきモノは何でしょう。そこで、最初の目的に戻ると

仏の智慧を観る

が出てきます。もう少し具体的に言うと

仏の造る法界

に心を止める、そして心を法界と一体化して、色々と観ていくのです。こうした法界は、色々な側面があり、一言では言い表せません。そのため、普通に見ると

法界を全て観ることはできない
断片しか見れない

のです。

しかしながら、こうした法界を造る立場なら、どのようなものも判っているでしょう。つまり

仏になって法界を造る

方法で、法界全てを観ることができます。

ここで大切なことは

仏の姿を神通力で見るのではない

ということです。瞑想をする人の中には、神秘体験を求める人がいます。そうした体験の一つとして

仏の姿らしいものを見る

場合がありますが、これは本当に『観た』のではありません。仏の世界に心を止め、鏡が映すように自然に仏が観える、これが本当に『仏を観る』修行です。そして

自らの中に仏を見いだす
仏の人格になる

と言う境地が開けてきます。

4.不可思議の境

こうして、止観で観るものは

不可思議の境界

と摩訶止観では、説いています。

これは、現在の文明の影響下にある、私たちが『思議』に長けているだけに、よく味わうべきです。例えば

仏が法界を造る

いう言葉では、文明的な教育を受けた私たちは

仏様が何か作業して世界を作っている

というイメージをもとのではないでしょうか?つまり

原因ー>結果

という順序だてて、整理するのが『思議』の作業です。しかしながら

仏と法界は一体
同時に出現する

という『不可思議』を受け入れる、これが瞑想の一つの目的です。西洋文明は、単純化して議論を明確にしました。その成果は大きいのですが、そこで落ちるものもあります。

こうした、同時に描かないと、解らないものもあるのです。

5.覚意三昧

さて、私たちの心の働きについて、観ていきましょう。仏教では

 心:感情や想念を含む全体的なモノ
 意:思考の働き
 識:識別作用

と三つの名前を付けていますが、それを一つの性とします。

この関係を

  • 心の中に意あるにあらず意あらざるにあらず

  • 心の中に識あるにあらず識あらざるにあらず

  • 意の中に心あるにあらず心あらざるにあらず

  • 意の中に識あるにあらず識あらざるにあらず

  • 識の中に意あるにあらず意あらざるにあらず

  • 識の中に心あるにあらず心あらざるにあらず

と説いています。つまり、明確な分離関係や包含関係ではないが、それぞれが関わりあって、一つのことを成しています。

私たちが、意識して考えていると思っても、今までのかかわりなどが、心の底から影響しています。また、識別できる概念があれば、それにとらわれることも多いですね。例えば「パワハラ」という言葉の力で、多くのパワハラが表に出るようになりました。このように、識別できることに、考えが引っ張られます。

このような、一つではないが、お互いが依存し、密な関係を観ることが、瞑想でできるようになります。

円頓章(摩訶止観から)

このような境地を、摩訶止観の序にある『円頓章』では、見事に表現しています。

円頓とは、初めより実相を縁ず、境に造(いたる)るにすなわち中道にして、真実ならざることなし。縁を法界に繋け、念を法界に一うす(ひとしうす)、一色一香も中道にあらざることなし。己界および仏界、衆生界もまたしかり。陰入みな如なれば苦の捨つべきなく、無明塵労即ちこれ菩提なれば集の断ずべきなく、辺邪みな中正なれば道の修すべきなく、生死即ち涅槃なれば滅の証すべきなし。苦なく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なし。純ら一実相にして実相のほかさらに別の法なし。法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後をいうといえども二なく別なし。これを円頓止観と名づく。

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